やりたいこととか好きなことなんて自由にならなきゃわかんない
寝室の窓を開けると
いい風が入ってきた。
朝ご飯をここで食べようと決めて
ベッドの上で食べた。
窓からは、木々の緑と空と、山しか見えない。
まるで旅行に来たようでうれしくなる。
エイブラハムの本を予約していたのが届いたので
図書館まで行って借りて読んでいた。
今の私にはこれがバイブルになるのだと思っている。
幼い頃の私は、自分の意思を持つことができなかった。
なぜなら、自分の意思を表明した途端、隣にいる母親がそれをぱくっと食べてしまったからである。
内面が空っぽな母親は、私の意思を全部自分の意思に変換した。
私がピアノを弾くことで、自分が弾いているような気持ちになり
私がはっきりした意見を言うことで、自分が意見を言ったような気になっていた。
母親の空っぽな心を満たすために、私は存在していた。
思春期を過ぎて、私は食べられてしまった「自分の意思」を自覚し始めた。
これはまずい、と思って、心の中を言わないように隠すようになった。
好きなことややりたいことは常にあった。
私は好奇心が旺盛で、なんでも喜んで取り組むタイプである。
けれど、「将来何がしたい」かどうかなんて決められることではなかった。
洗脳によって「教師になること」を自明のことだと思わされていたし
「母親の実家の墓守になるかもしれない」という予告も受けていた。
どちらも結局実現しなかったわけであるが。
親というものは、子どもを洗脳しているつもりなんてこれっぽっちもないと思い込んでいる。しかし、日常の言葉の端々に「こうあってほしい」という願いが埋め込まれていることに気づいていないだけなのだ。
そこから脱出できるかどうかは、子どもの勢いにかかっている。
私は懸命に脱出を試みたことで、図書館の仕事への道が開かれて
本当に好きなことを仕事にできた。
けれど、心の奥深くにある洗脳を解くまでには至らなかった。
母親の分身になれなかったことへの罪悪感や、見捨てられ感、といったものを
払しょくできるほど現実は簡単ではなかったのである。
私の意思は私のものだ!ということをずっとここでも言い続けている。
人の意見を尊重しているように見えて、実は、自分の望む意見だけを取り入れてる人は少なくない。
先日亡くなった俳優さんの出ているドラマを見た。
「わたしを離さないで」である。
ここには、希望を持たされたことへの絶望感が描かれている。
友人はこのドラマをショックだととらえていたが
私には「これ、普通に行われてることだよね」と思っていたから、確かにグロテスクな描写はあるけれど、「大きくなったら○○になりたいな」という希望を抱かせられた挙句に「それは、あなたが利用価値の高い人間になるためだったのです」と言われて終わるドラマを見てもショックではなくて、「良く描いてくれた」と思った。
わたしは、母親にとって利用価値のない娘になった。母親にたくさんの希望を提供したけれど、それは彼女の喜びとして使われただけで、私は臓器提供をしたみたいに、自分の心の一部を少しずつ切り取っていって、もう少しですべてを差し出してしまうところであった。
もしそうなっていたら、今頃どうなっていたことかと思う。
心を切り刻まれて、親に提供したところで、形としては見えないんだから、与えたほうも与えられた方もわからないんだ。
だけど、確実に与えたほうの心は小さくなって生命力がなくなっていくのだ。
魂は傷つかないが心や体は傷つくのである。
私が、親に与えた心を自力で取り戻したくて、でもそれはまた、他人に心を切り刻んで与えることでしか回復しないと思い込んでいた。
夫や子供にも分け与え続けた。
彼らは、私にも与えてくれたからダメージはなかったわけだけど、それでも、同じことをやってるという無力感にさいなまれ続けた。
やりたいことを頭を絞って考えたところで、何一つ「これ」というものに辿り着かない。当たり前だ。洗脳が解けていなかったんだから。
けれど、エイブラハムは言う。「人々の間に救いがたいほどの憎しみがあふれているなら、ソースに向かって”もっと高みへとつれていってほしい”と望むロケットを放っているのと同じなのだ」
つまり、私の体験は、私を適当な場所ではなく、もっと高みへと連れていくためのきっかけに過ぎなかったのだと。
やれ理想が高いだの、完ぺき主義だの、まるでそれが生きづらさであるかのように評価するのは、自分自身に理想を貫く強さがない言い訳に過ぎないのではないだろうか。
亡くなった俳優さんのことはわからないけれど、私が子育てにおいて、完ぺき主義を貫いたことが自分を追いつめた時期があって、それを後悔させるような人がいるけれど
私はあの時、自分を追い込み、それゆえに工夫もし、頭も使い、必死で生きてきたことが、今の私を形作っていると思う。一歩間違えれば死に至ったかもしれなくても、だ。
世間のスーパースターを見て「私は子どもに好きなことをやらせたい」などとほざく親がごまんといるけれど、まずは自分がやれや!って話でしかない。
必死になってない親を見て、どうやって好きなことを見つけられるんだろうね。
話があちこち脱線したけれど
誰かに「好きに生きてる姿」を見せてもらって、自分がそうなってるかのように錯覚して喜ぶ人の無責任さの話です。
家族はあなたの身代わりではない。
提供者ではないんだよ。
自分の不自由さを、子どもの自由さを見て補った気になってるだけなんてね。
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今日の朝食はわらびもち。