■
いつもの、ここらで一番安いバナナを籠に入れた後
柑橘コーナーを眺めていたら
仕切りの向こう側から眼鏡のお兄さんがひょっこり顔を出して
「こなつ、おいしいですよ」と声をかけてくれた。
「昨日、食べたんです。白いところも食べれますよ」
何となく心がウキウキしたので
一袋買ってしまった。
ご飯のおかずは、冷凍やレトルトで買い溜めておけば済むのだが
果物と新鮮な野菜だけは買い置きできない。
その代わり、こうした一期一会の出会いがあるから
出かけるのも悪くない。
*************
わたしは、常連が集っているようなお店がとても苦手だ。
本屋に行くとほっとするのは
どんなジャンルの本もあって、
どんな人でもウエルカムな雰囲気があるからだと気づいた。
お店の人が客を選ぶというのは
わからなくもないが
常連のたまり場にしてしまったら
台無しになるとは思わないのかなあといつも思う。
大きな本屋や図書館には、色んな人が来る。
右だろうが左だろうが、不思議系だろうが現実的な人だろうが
赤ちゃんからお年寄りまでやってくる。
そのキャパの大きさの中で働くのが好きだった。
私には、こだわりがたくさんあるけれど
店主の好みで客を選び、その客がまた客を選び
来た人をジャッジするような店に行くと
「どうしてお店としてやってるんだろう。会員制にしてしまえばいいのに。」と思ってしまう。
それは、どんな場所でも私はそう思っていて
仕事というものは、最低限、どんな人でもできて、どんな人でも受け入れられるものを目指すものとして存在していてほしい。
仲間内でわいわいすることでいいのなら
外部に開く必要はない。
いちいち、外部に開いて、外部と衝突したり、来た人を拒んだりするのってなんなんだろう。
差別というのは、そういうところから始まってる気がする。
誰にでも同じように声をかけてくれる果物屋と
常連だけに声をかける八百屋だったら
私は果物屋に通う。
どんな人も受け入れる病院で働く人や、誰でもがふらっといける公共施設で働く人は
人にもよるけれど、「誰にでも対応できるような感覚」を身に着けていく。
お金を介さないで来る人たちへの対応は、お店の接客とは全然違うんだ。
何が言いたいかというと
人間には二種類いるのかもしれないということだ。
私のような、根無し草で、誰とでも同じ距離感で接することが普通な人間と
常にグループに属していて、グループの外と中で態度を変える人間と。
どこでそうなるのかわからないけれど
小学生の時にはすでに違いは見えていた。
どのクループにもいける=どこにも属さないわたしは
がっちり固まっている女子グループの誰とも親しくなれなかった。
その排他的な雰囲気がどうしてもだめだった。
どこにでも行ける自分が「いいな」と思えるようになったのは
ここ最近のことだ。
友達や親友や血縁もいいものだけど
一生その人たちがそばにいてくれる保証はない。
何があっても、どこに行っても、誰かとふと仲良くなれることもまた、
いいものだと思う。
誰かや何かを囲って生きる人もいるし
私のように、開いて生きる人もいる。
学校や地域というものは、すぐに囲いたがるし、囲って生きることを奨励するから
子ども達は生きづらいかもしれないけれど
学校を越えて、地域を越えて、人とつながれる力があると
人生は広がりを持って楽しくなってくるよ。
小さな世界で困ったら、広い世界に出て行こう。
人の心も人の魂も人の頭脳も
小さな土地に縛られたりしない。
*****
こなつ、おいしかった。
中身もおいしいけど、香りがいい。
パソコンの横に皮を置いて楽しもう。