自分を愛で満たしてみる、一瞬でも
こんばんは。
今日は大阪、人が外に出てましたね。
暖かいからか、我慢の限界だからか。
なのに店だけが開いていないという不思議な世界です。
さて。
私が好みの考え方をされてる人が言ってることに
「誰かを愛していると思った時点で、愛は叶っている。」というような言葉がありまして。
わたしは、とても美しいと思いました。
自分の中に「愛している」が生まれた時点で「愛が叶った」。
たしかにそうだよなあ。
わたしは、しみじみとその言葉をかみしめて生きている毎日です。
わたしは、あいまいな日本語が勝手に解釈されて都合のいい使われ方をするのがとても苦手です。
昨日も書きましたが、「優しい人」だとか「おもいやり」とかです。
だから、どちらかというと、数学や物理、技術に強い人が語る「愛」はすっきりと気持ちがいいのですよね。
私の中でも、「愛」というのは、この世界に満ちている粒子のようなものというイメージです。
そこらにあるし、満ち溢れている。身体が拒否することもできる。ととらえることができます。
愛という粒子で身体を包むと気持ちがいい。それならわかる。
自分の心(どこか)に「愛」の粒子が生まれたら、それはきっと、この世界に撒かれていって彼の心にも届いてるはずなんです。
いいでしょ?(って私は思ってる。甘いしね~)
性格が悪かろうが、口が悪かろうが、愛はそこらじゅうにあるし、受け取れます。
愛というものを「限られた善人だけのもの」にしているのは、人間の思考です。
親から愛をもらえなくたっていい。←これはけっこう早く気付いた。
親にこだわるからおかしくなるんであって。
親との関係がどうのこうの、という理論も、一部正しくはあるけれど
それだけじゃないよね。
そこに抑圧された自分がいるだけで、親と対峙する必要はないです。
親からもらったものと決別するなり、捨てるなり、解放するなり、受け入れるなり、好きにすればいい。
余談ですが、私が、自分の生まれ育った環境や親戚一族を眺めてみると
「家族にこだわらない」が一貫してテーマとして流れてる気がしています。
うちだけが不幸の寄せ集めなのか、と思った時期もありました。
何かの祟りで離散しているのか?とも思いました。
↑
オカルトとしては面白いネタではある。
そうではなくて。ただただみんな、自分の幸せに向き合うことが必要だったんじゃないかって。
その着地点に「家族団らん」が一番だなんて誰が決めたの?
自分を愛で満たすために、家族団らんは必要なくて、自分一人があればいい。
そして、自分が愛で満たされれば、誰かに伝わるのでしょう。
今の日本には素敵な女性がいます。
ハイヒールから女性を解放している人や、行き場のない女の子たちを救っている人。
彼女たちの姿は、見ているだけで勇気づけられます。
横に男性がいることだけが幸せじゃないということを教えてくれますよ。
彼女たちも誰かを愛し、愛されているのだろうけど
「そこ」に幸せのゴールを設定していない。
もっと大きな愛があるから。
大きな話になっちゃったけど。
小さな愛憎劇もいいんだけどね。
とても変わった元夫と、変わった3人の息子、計4人の変わり者の男性の面倒を見てきた私ですよ。どんな変わり者でもダイジョブ(笑)
イケメンでセクシーな人なら、ずっと見ていられる人なら(*´ω`*)
ってことで、オチつけました。
愛で満たされてる感覚、お勧めです。
このツツジのピンク、素敵じゃない?