ありの~ままの~
イチゴが1パック200円で売っていたので
夜中にジャムにしてみました。
暇なので(笑)
何度も何度も書いては保存するブログ。
昨日はこの映画を観ました。
原作が好きなので。
昔は、茶道も華道も興味がありませんでした。
そもそもアクティブなほうなので、座って作業することは苦手。
しかも、上下関係うるさそうって。
でも、大人になってみると
花嫁修業や趣味としてではなくて
その本来のカタチは、とても素敵だと思いますし
所作に囚われないお茶の美しさがわかります。
昨晩のことです。
自分がいかに自分を否定していたかに改めて気づきました。
世間の声や、誰かの声、に耳を傾け過ぎていたことがわかりました。
参考程度にしておけばいいものを、「わたしはそこまでできない」「できていない」と
ずっと責めていたようなのです。
いい加減、それも飽きた。もうええわ~となった瞬間、心の中の鎖がほどけました。
何を基準にして生きていたかが見えたからです。
何かが足りない、何かがわからない、それを探す旅は長く続きました。
たくさんの不平不満が表現されずに残っていたことで
何十年もその言語化に必死になりました。
言語化した途端に、他人からの突っ込みや否定がまたやってきては苦しくなる。
その繰り返しにうんざりしたんです。
その後で、この映画を観ました。
言葉にしない作法っていいな、と思いました。
お茶をたてる、という動作の中にすべてが入っている。
言葉にすると誤解されたり、批判されたりするけれど
作法はただ、そこにあるだけだと。
悲しみも怒りも超えていく。一杯のお茶の中に。
失恋も誰かの死も。
そして、私はこれまでの悲しみや怒りや、理不尽さを言葉にすることはできるし
それで誰かを慰めたり励ましたりできるけれど
もう、そこまで言葉にしなくていいんじゃないかと思ったんです。
日々、Twitterで言葉を拾い、自分を慰めてもいました。
愛のような言葉もあれば、そうでないものもあります。
私が、最近とても苦手な言葉群の中に「あなたは○○だから現実を変えられないんだよ」「悩んでるだけなんだよ」というものがありまして。
この言葉でいったい誰が気づくっていうんだろう、追い詰めるだけじゃないのかなと思うんですよね。
どんなに何かを知っていたとしても
誰かの人生や性格や人格を考慮せずに決めつけることが
どれだけの影響を与えるかについて
何も知らないんだなと思うんです。
言葉は刃物と同じ、使いようです。
りんごを剥くと見せかけて、相手に突き付けることもあるんです。
もともと傷つける目的に使用しているとはっきりわかるのはまだしも。
言葉を介さない空間は、ただ自分と向き合うだけです。
自分と向き合う人と人が同じ空間にいる。
それってものすごく密な空間だと思いませんか。
どんなに言葉を尽くしても、届かない思いがあるのなら。
言葉のない場所で、言葉でないもので、存在するだけで伝わったらいいのかもしれない。
なんだか、そんなことをふと、思いました。
言葉にしなきゃわかんないでしょ、素直な気持ちを伝えなきゃ等々の
アドバイスに疲れましたね。
その人たちからやってくるエネルギーって心地よくないし。
まだ政府に怒ってる人のエネルギーのほうが純粋で気持ちいいよね。
羽生結弦選手の美しさも、言葉では現せない。
ヨン様の佇まいもそう。
美しいものにフォーカスしていきたいし
自分はもう自分を縛っていた様々な声から自由になって
好きなように生まれたての赤ん坊のように
ありのままで、ね。
映画の原作はこちら