愛は能力じゃない
愛についてけっこう考えてる。
「誰かを愛している」と他人に言う時のどや顔や
なんとなく誇らしげな顔を思うと
「愛って自慢できることなんかな」と思ったりする。
愛は状態であり
誰にでも備わっているものだ。
なのに、「わたしは愛を知っている」という人は
何を知っているのだろうか。
結婚やパートナーができることを「愛の成果」だと思っていないか。
まるで学校の勉強のように、結婚すれば自分の愛が合格点に達した証だと思ってるんじゃないか。だからこそ必死でマニュアルを作るんだし、そのマニュアルから外れた人を「必死じゃないからあなたは結婚できないんです」とか「いい加減な恋愛ばかりしてるから」とか言うのかあ~とふと思った。
複数の人と関係しようが、誰も近しい人がいなかろうが
その人の愛を誰が疑えるのだろう。
愛は目に視えない。
だから、目にみえる「結婚制度」や「彼氏の存在」で確認しようとする。
仲のいい家族を装ったりもする。
愛に不安なんだろうと思う。
私はその昔、愛が足りないと思っていた。
溢れるような愛を注がれた人たちにはとてもかなわないと思っていた。
だからこそ、結婚できた時は嬉しかったし、モテモテだった会社の同僚より早く結婚したことが不思議に思えた。
カウンセラーは「愛は子どもからももらえるよ」と言ってくれたけど
母から愛を搾取されたと思っていた私は、子どもからもらうつもりはなかった。
私は今、子どもから愛を受け取っている。
決してもらいたいと思ってもらっているわけではない。
ただ、子どもが発している愛を、そのまんま受け取ってキャッチボールしている。
そういうことを現す言葉がないし、
「愛をもらえばいい」とばかりに子どもから搾取する大人に対して、忠告する人もいないのが不思議だ。
夫と離婚した時に感じたのは「自分の中から夫への恋愛感情が消えている」ことの自覚だった。家族愛に執着していたら見えなかったと思う。
夫への家族愛はあったんだよ。だから、頑張ったんだもの。
それからというもの、恋愛のアドバイスをするという人たちに会ってきたけれど
私が恋愛で結婚して20年続いた猛者だということを全く考慮せず
「あなたは○○で恋愛ができないんだ」みたいな結論を勝手に押しつけて
私を凹ました。
それが的外れだとわかったのは、最近のことだ。
本当のアドバイスは、「誰にでも愛があること」「誰もが愛されていること」に気づかせるはずで、そこに至らないのなら、それらは偽物である。
学校の教育に慣らされた私たちは、愛までもテストで測れると勘違いした。
不倫は間違い、結婚は正解。
自分自身を愛すれば、相手が見つかるはず、そうならない人は、自分を愛せていない人だ・・・という仮定(って科学的に何の根拠もないしなw)をもって人を裁こうとする。
愛は裁けない。
まあ、今の日本、男はちっとも裁かれないのに、女性ばかり裁かれてる。
男性の偽カウンセラーが、男性に対して「結婚は修行だ、不倫などせずしっかりやれ」と一向に言わず、女性には「結婚は修行だ、恋愛じゃない」と必死で言うのは、つまるところ、男に都合のいい結婚しか知らないからだろう。ママが恋しい男のカウンセラーって惨めだな。
そんなの愛でも何でもないわ。
親に愛されてなくても、愛はある。
愛することもできる。
最近、愛されてたことばかり思い出す。愛のある眼差しで見られていた瞬間しか残っていないかのようだ。
それ以外の、不都合な真実(笑)は消え始めている。
若い人たちは「いい加減な恋愛」と「真剣な恋愛」があると思ってるようだが、そんなもんはない。誰かと誰かが会う、しゃべる、というそれだけで、ある種のエネルギー交換が起きていて、その影響は、「いい加減」に見えても、実は大きな影響を与え合っているものなんだよ。妻と夫だけが「正しいエネルギー交換」できるわけじゃないんだよね。友達や、一瞬の出会いが、人生を左右することだって大いにある。
それを「愛じゃない」とは言えない。
愛は、測れないし、テストもない。
結婚は愛の証明ではない。
能力ではないし、愛がない人もいない。
愛されない人もいない。
ただ「愛という状態」であるだけだ。
婚活カウンセラーに惑わされないでほしい。
恋愛アドバイザーに振り回されないでほしい。
自分の気持ちに、その時その時で素直になればいい。
どんなあなたも愛なんだから。
傷みそうなバナナと、スーパーカップのクッキーバニラを混ぜて固めたおやつが絶品だった。アイスはひとつでいけた。
チョコバナナ味は不滅だな。