生きる
扇風機を買ったら熟睡できた。
相変わらず、落ち着きのない、新しい経験を積み重ねて日々を過ごしている。
大好きなブログにこんな言葉があった。
>正論とされる言葉は、どれだけ正しくても「冷たさ」を帯びている場合が多い。これができる人間は生きていてもいいが、これができない人間は生きている資格も値打ちもないと、人間を断罪する冷酷さを覚える。正論に従えば、生きていくことはできる。が、生きていきたいと思う熱量【希望】を維持することが、難しくなる。反面、真の言葉には安らぎがある。温度があり、慈しみがある。それに触れた人間を「生きていきたい」と思わせる。私は、その力によってここまで生きてこれたのだと思う。
死に支度 致せ致せと 桜かな(一茶)
— 坂爪圭吾 / BillyGyallow🏳️🌈 (@KeigoSakatsume) 2018年7月22日
死に支度も兼ねて故郷新潟県に向かっています。このまま佐渡島まで能動的に流刑するのもありなのかなと思っているのですが、奇跡的に新潟でお会いできる方がいたらお会いしましょう!基本的に、新潟市西区小針浜界隈で野営をしています。海も空も俺も青い。 pic.twitter.com/OK3tZQHgkM
私はいつも怒っていた。
正論を振りかざす人に、温かくない言葉に。
子供たちを、自分を守るために。
そしていつだって、怒る私が間違ってると言われ続けた。
けれど、正論を語る人を、私は好きになれなかったし、今でも友達にすらなりたくないと思う。
語り合えばわかってくれるかと寄り添う気持ちも少なくなった。
今は、私を慕ってくれる人たちと共にいる、そんな気がしている。
私が盾となって、あらゆる傷を負いながら守ってきた子どもたちとも対等に話せるようになり、私を守ってくれる男に成長した。
元夫のことも、私だけが傷を受けながら守ったんだけど、守られてることにすら気づけない奴だったので、面倒見切れずに切ったのだった。
それでも、不思議なことに、魂は傷つかなかった。
輝きが増しただけで、全くの無傷なのだ。
それだけ、肉体と心が頑張ってくれたのだろう。
自分を守るために子どもを犠牲にしたり(先生やいじめに差し出すのね)、パートナーの悪口を言いながら生活したりするのは、私の流儀ではなかったから、そういう人たちの行動が全く理解できず、その人たちのためにあるようなセラピーやらを受けたところで、私には逆効果だったと思う。
たった一人の戦いは終わりを告げ、これからは、多くの人と目指す場所に行くのだと思う。
あなたやあなたの気持ちを汲んで、励まし合って歩いていける。
私が歩く道は、そういう道なのだ。
弓矢が飛んできても、私を傷つけることはできない。
さて。
大好きなコブクロの二人に会いに行こう。
彼らもまた、剥き出しの自分で生きてきた。
だからこそ、多くの人の心を打つのだろう。