悲しみの味わい方
隣の芝は青く見えると言います。
と、よく言われた。
確かにそうかもしれない。
誰もが他人を羨ましがっている。
だけど、どうしたってそう思えない日のほうが多い。
子ども達の不登校の日々の中で、ひとりになれないジレンマや
分かち合える人がいないことを思うと
日々の小さな幸せなんて感じることなど不可能であった。
子どもが生きていればいいやん、などと気楽に言えるのは
あなたの子どもが学校に通っているからだ
あなたには子どもがいなかったりするからだ。
そして、そういう安易な慰めが、いかにも「わかった人」のように錯覚させるのがとても嫌だった。
地震で命があったことをよかったと「思いなさい」と他人から強制されるのはおかしいと思っていて、ふとした時に「ああ、命があって、畳の部屋で眠れて、幸せだな」と思うけれど、それと同じぐらい、「大変なことになった」と思うものである。
小さな幸せを感じるために、ここまで大きな犠牲を味わうなんておかしくない?と思うことを、昔は否定していた。
ないものねだりはよくないだとか、身近にあるもので喜んどけ、みたいなことを私は心のどこかで信じていた。
だけど、今は違う。
自分が欲しいものを欲しいと思っていいし
ないものねだりをしていいし
悲しいままに生きていていいのだと思う。
隣の芝が思いっきり青くて、「刈ってやろうか~」と心の中で毒づくのは快感になる。
幸せがわからなくなるほどの辛さや悲しみが襲ってきたときは
そのままにしておくといい。
「わたしはこんなに悲しいんだ~~~」と叫んでいい。
もっともっと浸ったらいいのである。
なまじ「幸せを数えなさい」などと言ってくる人に振り回される必要などない。
私は、嫌なことを引きずるタイプだけど「そういう自分が嫌いですか?」と聞かれた時に「あ、そういう自分を嫌っていたんだ、なんでだろう」と気づけた。
ずるずる引きずったっていいじゃん、自分の心の中から消えるのは、自分のタイミングでしかないのだから、しょうがないじゃんね。
そしてそれを、誰かに話してしまう癖も、自分で認めてしまおうと思った。
悲しみにはグラデーションがある。
濃い悲しみから薄い悲しみに移っていく。
でも、悲しみは悲しみだ。
それを無理に否定しなくていいし、無理に「いいこと探し」をする必要もなくて、ただただ悲しみをそのまま味わっていればいい。
「悲しいよね~」「そうだよね~」という自分との会話によって、徐々に癒されていくのを感じるだろう。そして、悲しみを癒すためにあれこれしてしまう自分をも許せるようになって「頑張ってるね」とまたまた自分を励ますことができる。
決して奇跡は起こらないけれど、自分に対して優しくできるようになると、身も心も軽くなっていく。
不幸のどん底だと感じてしまおう。
そう感じるあなたがそこにいて、そのあなたは誰にも否定されていい存在ではない。
あなたがそう感じるのだから正解に違いないと私は思う。
そしたら、欲しいものが見えてくる。どうしたら幸せになれるかを真剣に考えられる。足りないものをいっぱい挙げてみよう。
心のままに、心の叫びのままに。
あなたに足りないものがあるとすれば、それは心の叫び。
もっと吠えて、もっとわめいて、もっと悲しんで
自分の命を燃やして生きていこうよ。