風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

コンプレックスのゆくえ

今さらですが。

 

コンプレックスというのはどこに染みついているのかなあ。

脳なのか、細胞なのか。

 

好きとか嫌いとか思う前に

すべてのことに「不器用」と言われたわたしは

親の言いなりになってできることを必死ですることでしか

生きられないと思っていました。

 

何も創り出せない

身体も強くない

せめて勉強ぐらいできなくちゃねって。

 

習字とピアノもお世辞にもうまいとは言えなかったけれど

続けていれば形にはなったというか。

それぐらい。

 

生き物として私はできそこないだと思っていたわけです。

誰とも勝負できないと。

どんなに頭が良かろうが、家が大きかろうが関係ありません。

とりあえず周囲の大人に従うしかありませんでした。

 

運動したい、鍛えたいと言っても却下。

絵は下手だし、中学校の時は美術と家庭科で先生から叱られるし

体育なんてわけわかんないし(右と左がうまく区別できない)。

 

女性は手に職をつけたほうがいいっていう話は

理解してても、まあ「私には無理」な世界でして、

どうやって大人になれるか、大人になってからどうするんだってことも

描けない子どもだったなと思います。

 

そもそも弱肉強食のこの世界で生きていける気がしなかったので

将来のことはあまり考えないようにして

親が「学校の先生になれ」って言ってたからまあそう言っとくかぐらいの感覚でした。

 

そんなよわっちい私が結婚できるとも思ってなかったし

ましてや子供を3人産み育てて離婚までするなんてね。

でも、でもです。

どこまでいっても、私は根本的な自信が欠けている。

鬱病を越えてようやく「生きる実感」は生まれたものの

気を抜くと昔の「何もできません」に身体ごと引っ張られることがあります。

 

たくましく生きている友人たちを横目で見ながら

「これからどうするかなあ」と心細く思ってることは

きっと誰にも知られていないはず(笑)

そして、誰かに頼ってやろうと虎視眈々と狙っているにも関わらず

今一歩のところで

エネルギーだけが異様に強く、頼らなくても生きていける自分が邪魔をして

結局何とかなってしまっている現実(笑)

 

みなさん、「これしかできなかった」と起業されたり

「頼るしかできなかった」としっかりした夫と生きていらっしゃったり

隣の芝は青く見えると言いますが

まさに、羨ましい限りでございます。

 

しかし、私とて、いい加減流されて生きるわけにはいきませんし

死ぬまでビビり倒して生きるのもしゃくです。

本気で後半の人生をやっていこうという決意ということで

書いてみました。

 

繊細で、ちっちゃなことばかり気にして、一歩も踏み出せず

自律神経やられちゃうような人間でも

やってやりますよ、ということです。

 

ダメ出しばかりされる人の気持ちは誰よりもわかる。

何もできないからダメ→女として気づかいできないからダメ→誰にも頼れないからダメ→勇気がないからダメってね。

だからこそ、自信がなくても人生やっていけるということを

何も才能がなくたって大きな目標を心に抱いて生きていけるということを

存分に描いていきたい。

それが幼い頃の私を助けることだと思うから。

 

どうなるか、な!

 

「何もできない」と縮こまっている人の、答えにはならないかもしれないけれど

誰からも承認されなくたってここまで生きてきた人間がいるんだよということを

伝えたくて書いてみました。

 

「承認されなかったのはお前の責任だ」というのはわかった上で、ですよ(#^^#)

承認されたらされたで、支配されそうになるので、逃げてましたしね。

いいんですよ、わたしはそれで。良かったと思ってます。

自分を救うためだけに生きてきた。

周りなんて見えなかった。

それもありです。

 

人はいつからでもスタートできるんですから。

 

コンプレックス上等。

 

 

 

 

マニュアルを信じないことが大事

雨が続くと身体が重くなりませんか。

今日は晴れてくれて助かりました!!

 

今日はマニュアルについてひとこと。

 

私推測にすぎないのですが

学歴で上に行く人はマニュアルが好きです。

というより、テストでいい点を取るってことがもうマニュアル。

あれに慣れてしまうと、「この通りにやればいいじゃん」になってしまう。

 

もっと頭のいい人は、それ以上のことをやってのけるので

私が勉強というものに興味が持てなくなったのも

マニュアルでは対抗できなかったからです。←一番ダメな奴。

 

ひとりひとり言い分は違うと思うんですけど

私の場合は、習い事だのなんだの、押し付けられた習い事+やりたいことが多すぎて

宿題や試験勉強だけに日常を使いたくなかったというのがあります。

その上、身体がだるくなって動けなくなることもあるので

「やれる時にやる」「効率よくこなす」をやらないと、

人生なんのために生きてんの?ということになるので

全力で「簡単にできる方法」を模索して生きてきました。

 

なので、平均的な人よりはマニュアルに触れる機会が多かったと思います。

 

体力のある人や、時間がある人、そんなに趣味が多くなくて勉強や家事に時間を費やしても疑問を感じない人は、別にマニュアルに頼る必要もないわけですが。

 

生き急ぐっていうか、常に「時間がない」という焦りでいっぱいでした。

 

というのが、前提です。

 

さて。

 

世の中には、勉強のマニュアルや家電製品のマニュアル以外に

「人生のトリセツ」みたいなマニュアルが出回っております。

「恋愛」「仕事(主に営業)」「コミュニケーション」等々

うまくいかないときってどうしてもその手の本に手が出ます。

YouTubeで探してしまう人もいるかもしれません。

 

ちょっと待って。

たしかに、少しは役に立つこともあるんです。

まったく役に立たなきゃ売れないですし。

それでも、よく考えてみればわかりそうなものですが

「恋愛がうまくいった人」と「あなた」は同じではありません。

生まれも育ちも体のつくりも全部です。

当然、見ているものも違います。

だけど「うまくいったことで他人にアドバイスできると思っている人」というのは、そういうことを全部無視して向かってきます。

そして、当然のことですが「どうして同じようにしたのにうまくいかないんでしょうか」というお悩み相談が来るわけですね。

すると、二冊目を書くんですよね。

「だからあなたは恋愛できない」(笑)

 

人は「できない理由」をいくらでも考え出せます。

出来る理由より簡単だからです。

他人の粗を探すのは誰でもできます。

 

そして、どんどん「だからあなたはできない」という言動を強めていくわけです。

「だって私はできたんだもん」ということを言いたいがために。

 

できない理由はたったひとつです。

「あなたはその人ではなかった」からです。

 

営業でもそうです。

たくさんYouTubeにあげている営業のアドバイザーがいるんですけど

ネタがなくなると「できない理由」ばかりになります。

「こんな営業はダメだ」とか。

そりゃそうですよね。

世の中、誰一人同じ営業ができる人はいないし、同じ営業で同じ成果を出す人もいない。だって、営業先も違うんだから。

あ、恋愛でも同じでしょう。相手がいるんだから。

 

対人間で何かをする場合、必ず「自分」と「相手」の問題になります。

その間に流れる空気感とか相性とか、それは、持って生まれたものや、育ってきたものに大いに影響されます。

例えば、洗脳などで、自分が優位に立って相手に仕掛ける場合は別ですよ。

どんな相手にでも洗脳できるという自信が欲しければ、洗脳の勉強をしたほうがいい。

 

本が好きな私は、何冊もマニュアル本を読みましたが

結局ところどころ参考になるだけで、

「わたしはこんな恋愛したくないわ」「こんな営業は違うと思う」で終わりました。

 

おそらく、昨今の出版社や編集者の感覚が、昔と違うのだと思います。

ノンフィクションでもエッセイでも、昔のものは「個人の体験記」という枠組みがありました。一個人の体験であれば、それはマニュアルにはならないわけです。

ところが、ここ20年くらい?それ以上?個人の体験がマニュアルとして描かれるようになってきたのです。

 

それが望まれたから、と出版社は言うかもしれないけれど

これはとても危険なことだったと私は思います。

 

素人が、コミックを描けるというだけで、鬱病を体験しただけの一個人が、精神疾患の専門家みたいになってしまったり

親子コミックを描いただけで「教育にひとこと言っていい人」になってしまったりしています。

 

みんな絵が上手いだけじゃん・・・

 

「見せ方がうまい」というだけでマニュアル化に成功させて、まるで専門家のように振る舞わせてしまっている罪は大きいと思います。

あくまで「自分は漫画家なので」という線を引ける人は少ないでしょう?

持ち上げられたら「私ってそういう使命があるのかも!」になるでしょう?

 

漫画を描くうちに詳しくなって専門家チックになっていく人もいるかもしれないけれど

テレビやYouTubeでしゃべってるうちに詳しくなるかもしれないけど

ほらあの、お笑い芸人がいつの間にかコメンテーターになったりするのと

まったく同じだと思います。

 

だから、世に出ているマニュアルを信じる前に

自分という人間をまず、知っていくことです。

 

メディアに出ている人にごまかされる前に、やることがあるよ。

 

私たちはロボットじゃないんだから。

大切なのは、自分を輝かせること、自分の魂を見つけること、それも、「私は見つけました~輝きました~」「あなたの魂を見つけてあげます~」の人にくっついていくのではなくて

地道に探すことです(#^^#)

 

そして自分が体験していくすべてを信頼してください。

自分だけが経験して得たものを大切にしましょう。

それが失業であれ失恋であれ、うまくいかない子育てであれ。

 

それが積み重なって、あなたにしか描けない人生が創り上げられるのです。

 

あなただけのマニュアルを自分で作っていくのが人生です。

どうか忘れないでください。

 

 

注目されることなく生きることができるか?

朝から炎上している件で

今の自分とリンクする部分があったので

書いてみようと思う。

 

ブログというものが世の中に出てから

「素人でも注目される」ことになった。

以前から、メディアに出るか出ないかが、「何者かになった証」であるかのような風潮ができていて、その集大成が今回のメディアが作るオリンピックになったわけだけど

それも「命よりメディア」が選択されたと言ってもいいと思う。

 

つまり、「見せかけの世界のために必要な人と必要でない人がいる」という線引きがなされる世界が加速したと私は思う。

 

かねてより、スピリチュアルな人たちが、自らの人生を切り売りしてブログを書いてお金を稼ぐことが当たり前になり

出版社が乗っかって売り上げに使っている。

自分の恋愛や結婚、不倫や、出産、育児まで

すべてを商品化するあり方である。

昔は、芸能人の告白本が流行ったが、今やそれを素人が自分のために作ってるようなものだ。

 

「神様が私の不倫を応援してくれた」という神様界隈の人たちが後を絶たないし

自分の恋愛がまるで「生き方が良かったからうまくいってる」と宣伝して

信者を増やすことも当然のことのようになっている。

そうそう、昨日も「男を選ばないでセックスすると悪い気をもらっちゃうよ」という気持ちの悪い男性占い師の言葉が流れてきて、どこに悪い気を持たない男がいるんだよ!と突っ込みを入れたくなったんだった。

 

しかし、今回のメンタリストの炎上により

その「意味」が少し見えた気がした。

 

わたしは、不登校で悩む人たちにもずいぶん会ったり本で読んだりしてきたけれど

多くの人たちが「不登校でも何者かになれる」と言ってたし

また、「不登校経験を生かして何者かになろう」という風潮もあった。

 

私はそれが不快で嫌いで、そのことをブログに書いたこともあった。

不登校経験のある普通の人でもいいじゃないか」と。

 

結局のところ「何者かになれ」「注目される人であれ」というプレッシャーが今の日本を覆っているのである。

ユーチューバーなんてその最たるものではないか。

 

「役に立たなくていい」「何者かにならなくていい」と言ってる人たちに私は聞きたい。

もし、家族に働かなくてごろごろしている子どもやパートナーがいたとして

同じことをその人に本気で心から言えるのかと。

 

そしてまた、今SNSで注目を浴びたり、何かしらメディアに名前が知られている人たちが、明日から誰にも注目されない世界に変化したとしたらどうなるんだということも考えてほしいと思った。

 

「私が今、Twitterで注目されてるのは、私の努力の賜物ですから」と思うのであれば、あの炎上商法の人と、何が違うのだろう。

 

自分の名前が知られることが「当たり前」の世界の人たちは、そういう立場に自分が置かれることに、本気で向き合ったことがあるのか?と思う。

東京にいれば、ニートであっても本まで出してもらえるけれど、地方じゃそんな人は下を向いて歩くほかなかったりする。「価値」とはメディアが決めることなのだろうか。

 

広告屋にいた女の子は、自分の思想を舞台の上で語って

自分だけが注目されることに必死だった。

そういことをしてまで、「自分に価値がある」と思わせなければならないようだった。

 

注目されるために必死になって努力して「ここまできました」と思っている人、頑張ってたことで当たり前に注目されるようになった人たちが、努力しない人を馬鹿にしたり必要ないと思うのは、かつての自分を必要ない自分だったと言ってるようなものなんだが、けっこうそう思ってる人が多い気がしてる。

 

舞台の上で自分の思想を語ったスピってる女の子を見て私は思う。

私なら、ここにいるすべての観客に舞台の上で語らせるのに、と。

 

「私に力があるから語らせてもらえるし、私じゃなきゃだめなの」というのは

結局は「有名になることがすべて」「力を持つことがすべて」に集約されていく。

 

「ただのおじさん、おばさんになりたくない」からSNSで発信しているのであれば

そこからいつでも「降りれる自分」でありたいとわたしは思う。

 

不登校界隈でさえ、有名になってしまえば勘違いが起きる。

「何者かになった気がして」弱者を切り捨てたりする。

 

そうならない思想が必要ではないだろうか。

 

奇跡のコースを学んだ時も、結局は「許す人」と「許さない人」のふたつに、人を分けていた。それは違うだろうと思ったんだけど、影響力のある人がそう思わせていて、つまらなくなったから、学ぶのは自習することにした。

「許す自分」を高みに置いて、どこか特別感を漂わせる手法を、私は好まなかった。

 

どうして同じ地平で語れないのだろうと思った。

 

お金が介在するから?教える人と教わる人になっちゃうから?

そしてまた、そういう深い部分での葛藤を止めてしまえるから?

 

宗教や哲学、心理学、教育などというのは、常に葛藤を抱え、矛盾を自覚しながら進むものであるはずなのに。いつから注目度や有名度に振り回されるようになってしまったのか。

 

高額納税者である」「メディアに出ている」「フォロワー数がある」ことが「どんな言動も許される」ことへのパスポートとなるような世界にしていいのか。

「役に立つ人間でありたい」という思いが、「私の結婚や出産が誰かの役に立つから、私のアドバイスを聞いて!」という勘違いも生んでいるこの世界で。

 

意味なく恋愛し、意味なくセックスし、意味なく生きてるこの瞬間を愛せなくてどうするのだと。

 

芸能人が海外で自由を味わうのも、「何者でもない自分」であるが

いつまでも「何者でもない」をやってると、物足りなくて日本に帰ってきたりするわけで。

どうしたって「注目される自分」という麻薬から逃れられなくなってる人たちから薬を取り上げた時、その人たちはきっと「自分より注目されない、役に立たない人たち」を攻撃し始めるんじゃないかと思うと、誰にとっても他人ごとではないと思う。

 

「役に立たなくてもいい」「生きているだけでいい」と今まで一度も誰にも言われなかった大勢の大人たちの意識変革がなされるのか、それが鍵のような気がしている。

 

全然まとまらないものを書いてしまった。どこかでリベンジする。

罠にはまらない

おはようございます。

お久しぶりです。

ブログに書いてみようかと思うくらいの気づきがありました。

 

「これでいいのだ」

以上です!(笑)

 

昨年春に一人暮らしを開始してから

様々な心の変化がありました。

ひとつひとつを見ていくと

それを「問題」だと捉えることもできます。

 

だけど、そのすべてが、私の人生にとってとても必要なことだったとわかったのです。

 

自分の生きづらさや問題と向き合いたかった私には

周囲の雑音は邪魔でした。

常に周囲を気にしてしまう癖のある私は、ひとりになる必要がありました。

それがわかっていたからひとりになりました。

 

だから、問題が出てきて当たり前だったのです。

周囲に人がいることでごまかされてきたあれこれが顕実化した、ということです。

 

立ち現れた問題たちが私を苦しくさせたけれど

それまでに培ってきたもので、なんとか生き延びることができました。

いや。まだまだ序章なのかもしれません。

 

でも、面白いのです。

 

自分を育て直すこと、ありのままの自分を受け入れようとしていることが。

 

 

実は昨日、さすがにひとりで対処するのも限界かなと思って

カウンセリングを予約して行ったみました。

一通り話を聞いてもらいました。

案の定、「私が今一番感じている問題点やつらさ」に焦点が当たろうとしたその時

私の口から「もう変えたくないんです。ありのままの自分を受け折れたいんです」という言葉が出てきました。

 

自分の耳で自分の言葉を聞いた時

「そうだったの?やっぱりそうだったのね!」という

なんとも言えない安堵感が広がりました。

 

私の基本はここにある。

「上昇しなければ」「良くならなければ」「良くしなければ」「解決しなければ」

という「何か」からの解放。

 

私の目指すものは、私が一番知っていて、自分もそうありたいのだということが

はっきりした瞬間でした。

 

自分の「このまま」で生きていきたい。その上で、やりたいことを成功させたいのです。

 

変えられたくないのです。私のどんな部分をも。

変化していいと許可するのは自分だけなのです。

 

一人暮らしになって一番困ったことは

自分自身のわがままさでした。

私は、自分の感覚がすべてなので。誰にも合わせる必要がない場合

とことんマイペースな生活をしてしまいます。

それこそ、引きこもり状態にもなります。

 

こんなに引きこもりにぴったりな性格だったのね!ということを知ったのが収穫です。

 

だけど、そこから一歩進んで、今は「心と体の健康のために、生活を整えたいなあ」と自然に思えるようになってきました。

とことん我儘を貫けたおかげです。

誰かに「そんな生活ではだめだろう」と言われてたら、もっと引きこもりたくなったかもしれません。

 

っていうか、私の心の中には、「そんな生活ではだめだろう」という他人が住んでいて、そいつがたまに私にお説教をかましてくるのが、とても苦痛でした。

 

「自分が自分の味方でいる」ためには、心の中にいる他人より、「もうちょっとわがまましたい」と言う声を優先する必要がありました。

すると、疲れは必要に応じて消えていきますし、どうして身体が動かないほど無理しちゃったんだろうと振り返ることもできますよね。

 

「こうしたら楽になりますよ」「あなたのここができていないから辛いんですよ」

という「解決の罠」にはまらないように生きること。

 

家族と一緒にいる時の寂しさとひとりの寂しさの違いとか

これが「つらい」ってことなんだな、とか

人を求める気持ちとか、自分の弱さとか、加齢で弱っていくことへの恐怖とか

そのひとつひとつの心を味わっていくことで

ようやく私は、自分自身を生きる人生を始めているのだと実感しています。

 

関わってくれる人のありがたみも

常に誰かの世話に追われている時にはそこまで感じられませんでした。

頻度がどうであれ、自分の人生とリンクしてくれる人との関わりを

楽しめるようになったのは、とても大きな収穫です。

縛りあわない関係性がどれだけ豊かなものになるか。

 

結婚しない人も増えていくでしょうし

会社勤めが当たり前ではなくなるかもしれない。

そんな時代の悩みに

寄り添っていくために

 

私の今の経験は必要だと感じています。

 

解決しないけど、寄り添っていく人として

私はここにいるよ、と。

 

私の師匠は、本の中の河合隼雄先生と斎藤学先生です。

決して目の前の人を「治す対象」とせず

「人」として対峙することを教えてくれています。

私はこのおふたりの思想に救われてきました。

決してご本人に合わなくても、そういうことがあるのが

本当の意味でのスピリチュアルな経験なんじゃないかな。

と、思ったり。

 

そういう意味で、愛はそこらじゅうに溢れているのです。

 

肉体の触れ合いだけじゃない、なにか。

その「なにか」があれば大丈夫な気がして。

今日もよき一日を。

 

痛いものは痛いんです

朝から夕立のような雨が降っていた。

なかなか起き上がれずにいて

そのまま夜になってしまった。

 

私には、ちょっとした困った癖がある。

いつも「動けない時の自分」を責めてしまうのだ。

 

今日もそういう気持ちの隙間にハマってしまい

悶々と一日を送ることになった。

 

私はよく大袈裟だと言われたし

今でも「痛いです」と言っても信じてくれない人がいる。

 

私が、助けを求めるのが下手なのは

私の痛みや辛さは理解してもらえないと思っているからかもしれない。

 

目に見えてけがをしたとか

血がいっぱい出ている時は

誰でも助けようと思うだろう。

だけど、その時期が過ぎて、見た目に健康そうになってから

「いや、まだ辛いです」と訴えた時

「え?気のせいじゃない?もう良くなってるはずだよ」とか言われると

もう無理だ。

 

自分が悪人のように感じてしまう。

 

たとえ脳内がバグって、痛みを私に感じさせているのだとしても

それを否定されるのは、マジでキツイ。

 

世間の人は、どうやら常に痛み止めを飲んで仕事しているようだけど

私の「痛み」とはそういうものでもないし

身体全体が何やら「落ち着け」「休め」と命令してくるような感じなのだが

その感覚を共有してくれた人と出会ったことがない。

 

仕事においては「頑張りすぎ」と評されることのほうが多い私だけど

ポンコツの自分に優しくしてくれる人はなかなかいないのだ。

それもそのはず、自分がポンコツの自分をいつも叱っているからだろう。

 

さぼってるんじゃない?頑張りなさい、と叱咤激励することがいいことだと

思っている人とはそういう時期に会いたくないし

「本当にしんどいの?病院行った?」などと真実追求型で責められるのもしんどい。

 

そんなにみんな、体を休めることへの正当性を持っているんだろうか。

私はとても不思議だ。

 

人のことなんて100%理解できないのに

相手の肉体的な病気の原因を知ろうとするし

知らないうちは「休ませないぞ」という気迫で迫ってくるのは何故なのだ。

 

過去、「みんなもやってるんだし、これ以上休んだら白い目で見られるかも」と思って

3人目出産後すぐに復帰したところ、無理がたたってその後一年以上休職する羽目になったことがある。

本当に「死」が頭の中をぐるぐるするくらいの大変な経験だった。

 

今では、産後鬱のひどいやつであり、脳がパンクするほど脳を使ったことが理解できるけれど。まあ、外から見れば「なんで?」でしかなくて、理解もなかった。

保育園の園長先生だけが味方だったということもあった。

 

私の頭がショートするのは、常に仕事を複数抱えても作業できてしまうくらいに使っているからなのだが、それは外からは「なんか忙しそうに頑張ってる」としか見えないので、「ヤバい」と思った時には身体が動かなくなるのだ。

 

こういうことをダラダラと他人に話しても仕方ないので

へらへら笑って「すみません、休みます~」と頭を下げている。

 

今回も、手術による体力低下と、なんだかわからないけど

自律神経がぶっ壊れたみたいに起き上がれなくなったのだが

「仕事まだ休むの?」みたいな視線が痛くて、引きこもり状態である。

 

こういう時にわがままを言えて、助けてくれるパートナーがいればなあと思ったりするもんだろうが、だいたいにおいて、説教されるか逆にこっちが気を遣うことになるので

ひとりは気楽である。

 

気のせいとか、心の持ちようとか言われなくて済む時代が来ればいいなと思う。

もっと脳科学が発達して、痛みの発生する理由が解明されれば

堂々と休めるんじゃないだろうか。

不登校や引きこもりの子ども達も助かるだろうに。

 

感覚過敏も、食べ物の好き嫌いもそうだけど

なんでもかんでも「世間でいい感じで動けている大多数」を基準にしないでもらいたい。

繊細や敏感な人間を馬鹿にしない世界になってほしい。

 

脳は簡単に壊れる。

そして、自殺でもしなきゃわかってくれないぐらいの精神状態に追い込まれてしまう。

 

その怖さを知らない人が人を追い詰める言葉を簡単に発してしまうことを知って欲しい。

 

お金より職場より自分の身体と命を大事に。

 

「病気や障害だから助ける」じゃなくて

「病気に見えなくても大変そうな人がいたら、ただ助ける」

それでいいんじゃないの。

 

どうして人を助けるのに理由がいるの?

 

痛いものは痛いんです。

それで?を心の中でつぶやいてみよう

しあわせ、ということについて何十年彷徨い続けてきただろうか。

 

すんなりと手に入れた人、幸せになりたいと願っている人

この瞬間もそれぞれだろう。

 

お前なんか幸せにならない、という呪いをかけられた私は

「じゃあ幸せってなんなの?」を問い続けて生きてきた。

誰もが「やりたいことをやりなよ」と言った。

やりたいことは山ほどやってきた。

それでも「これ」というものにぶち当たらなかった。

 

あなたはこうだから幸せになれない、というアドバイスなら耳にタコができるほど聞いた。

 

幸せになれない理由を探すほうが簡単だからだ。

 

わたしはどれも受け付けなかった。

だから、生意気だと思われて叩かれた。

 

しがらみが余計だった。

お坊さんのように、ひとりになって自分を知りたいと思った。

だから、離婚して子どもも手放し、実家の縁も遠くにやってしまった。

 

そうして生きているうちに、やっと見えてきたものがあり

後半の人生は、「それ」によって私は進んでいくのだと気づいた。

 

私にアドバイスしようとしてくれた人たちは

悪気があったわけでもないし、その人の価値観に沿った話をしてくれただけで

私を傷つける意図はなかったと思う。

 

その的外れの数々のアドバイスは、私を奮起させ、そういうアドバイスをしない人になろうという決意に代わったから、良くも悪くも人生はうまくできているのだろう。

 

大人しく「そうなの?」「そうかもしれない」と落ち込みながら話を聞いていた私は過去のものとなった。

 

心の中でつぶやくのは「それで?」の一言だ。

 

「私は○○したからパートナーが見つかりました!」・・・それで?

「私は○○のおかげで急にお金が増えました!」・・・それで?

「子どもができました!」・・・それで?

 

なんでもいい。成功事例っぽいことを言ってる人がいたら

「それで?」と心の中でつぶやくだけである。

 

パートナーができることも、お金が増えることも

一瞬のハピネスである。

そこから始まる長い人生の第一歩である。

 

その第一歩を「しあわせ」と固定してしまうことで、今後起きる様々なことを「しあわせ」と定義し続けなければいけない人生が待っているだけである。

 

それは大変ではないか。

 

そのような「しあわせ」を形作るために、のちにセックスレスになるかもしれない夫婦となり、詐欺まがいのことをしてでもお金を作らなければならなくなり、子どもをインスタに上げ続けなきゃいけない毎日になったとしたら。

 

あまりにも悲観的すぎだと思われるだろうか。

本当に、瞬間のハピネスだけでいいのであれば、どうして不倫だ、され妻だ、育児辛い、嫁姑がしんどい、お金があっても満たされない・・・が永遠と繰り返されているのだろう。

 

あらゆる名目で、幸せになれないよ~と嘆いている人からお金を受け取って、

アドバイスする商売が増えたのはたしかで

だけど、そのゴールが結局「見せかけの幸せ」になっていて

(そういうゴールを示さなければ客が来ないのであろう)

結局のところ、それほど幸せでもない人たちが

お金で資格を買って

その資格で幸せと不幸せの循環を見事に作り出しているように見える。

 

その循環から抜け出す方法はこの呪文だと思う。

「それで?」

 

わたしはわたし、あなたはあなた、を明確にする。

どうしたって影響される他者の青い芝生を無効化できる。

 

今の職場は、成績によって「もの」が配られる。営業ってそういうところなんですね。

知らなかったけど。

成績のいい人は常に何かをもらっている。

だけどちっとも嬉しそうじゃない。

 

それを見て心から私は思った。

成績が良くても、ものをたくさんもらっても、それは幸せではないと。

 

満足はしてるかもしれないし、生活が助かってるかもしれない。

でも、喜びの笑顔は見られない。

だって、また次の瞬間走っていかなきゃいけないから。

 

学校の成績が良かったら、お金持ちだったら、結婚したら、子どもができたら、仕事で成果を上げたら・・・みんなそこに「しあわせの幻想」を見る。

 

全部やってきた私が言う。

それは幻です。

 

「それで?」を心の中で呟いたら、きっと「その先の言葉」が出てくる。

その「言葉」に耳を傾けるといい。

それが自分の本音。

 

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数値で表せない痛みを緩和するために

人生で初めて手術をした。

 

とても怖かった。

 

いくつになっても怖いものは怖い。痛いものは痛い。

 

入院は初めてではなかったが、気づいたことがあった。

 

自分が何を求めていたかということが。

 

医師も看護師も、どうしても患者を数値で見てしまう。症状で判断する。

そこに「気持ち」は入らない。そんなものを入れたら判断が狂うと思っているかのようだ。

 

しかし。人間は数値ではない。

 

たしかに、腕はいい。だけど、痛いとか苦しいと訴えても、その返事で癒されることがないのである。

 

私はいくつかの試練を経て、痛みを訴えることにも躊躇はしないし、だからって相手に丸投げをすることもなくなった。最後は自分で何とかすると決めているし、ある程度の知恵と知識を身に着けたからである。

 

私が自分に用いるのは、東洋医学的な知識で会ったり、瞑想だったり、民間療法的なものである。

痛い時に「痛いね」と自分に話しかけることもそうだ。

 

そういう工夫を知らないまま、ただ「我慢すること」「気のせいと片づけること」は、最終的にちょっと苦しいなと私なら思うからだ。

 

手術前の恐さや、手術後の痛みに対応するために

「それぐらいなら我慢してください」みたいなアドバイス

「突き放された」としか思わない人もいるのではないかと思うのであるが

ある種の人たちは「そういうもの」と諦めているかのように見えた。

 

私は感覚過敏なところがある。だけど、別に医師や看護師は非人間的なのではないが、職業柄そうなってしまうことも理解している。

 

であれば、痛みや怖さに耳を傾けてくれて、そっとそこに手当てをしてくれる人がいてもいいのではないかなと思ったのだ。

 

病気を治すわけではないが、怖さを和らげることは手助けになるだろう。

痛さでパニックになっている人を落ち着いて痛みに向き合える状態にできるかもしれない。

 

私はもともと、不登校支援をしたいと思っていたけれど

いつしか、もっともっと全体的な、「病院やどこかに頼るほどではないが、誰かに聞いてもらいたい痛み」に耳を傾ける人になりたいと思った。

 

そして、自分自身が痛みに弱いことから研究してきた「病院にかかるちょっと前にできること」を使って、何かできないかなと思っているところである。

 

「はい薬」「はい病院」では癒されない部分。

誰かに手を当ててもらいたい気持ち。あったかいお風呂に入れてもらったような心地よさ。そういうものを提供できることをしたい。

 

「痛み」を表現しても大丈夫な。

「そんなもの、痛くないでしょ」「ほっといたら治るよ」「気の持ちようだよ」などと「痛い」と言うことを止められてしまった人に。

 

それは、心の問題も同じです。

 

意見を言うことを止められた人たち。

痛い目に遭ったことを話しても受け止めてもらえなかった人たち。

 

私はそういう人たちの話を聞きたい。

 

数値で表せない痛みを緩和したい。

 

民間療法や針灸や整体を嫌う人もいるけれど

「それだけ」ではなくて「あれもこれも」の併せ技ができるのが現代のいいところだと思う。

 

私が幼い頃に望んだことは、「痛い」→じゃあお医者さんね、お薬ね、ではなくて

「どこが痛いの?」「熱あるの?」と体に触れて確かめてもらうことでした。

そして、ずっと身体をさすってもらうとか、おかゆを作ってもらうとか、何か「あなたのことを思ってるよ」という「気持ちの表現」が欲しかったのだと。

 

誰かの心に触れる時も同じです。

しんどい、学校に行きたくない、食べられない・・・それは足に異常があるわけでも、胃に穴があいているわけでもないことのほうが多いわけで

理由を追求して解決するのも大切だけど

同時にその「辛さ」に寄り添って話を聞くことも必要。

 

「どうせまた、さぼりたいんでしょ」「精神的に弱いから」「きっと試験から逃げたいからそうなってるんだわ」

と決めつけて、その子にしゃべらせない親も多い気がする昨今。

 

わたしはただ、その人の話に耳を傾けて、心をほぐしていきたいと思う。

 

ただ語ることで、その人本人が勝手に解決できていく道もあるし

痛みが引いていくこともあると思うから。

 

解決やアドバイスではない、ただの傾聴でもない。

そんなセッションと

五感を使った癒しをこれから提供できるように

改めて決心が固まったところです。

 

ご興味のある人がいらっしゃいましたら

お話ししましょう。

 

お話し会とかやったら来てくれる人、いるかな。