風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

こりゃ無理だ

近くで運動会が行われていた模様

コロナでどうなるかと思っていたけど

やっぱりやるんだ~。

 

それはともかく。

学校教育の弊害についてばかり語っていたけれど

そもそもこの国の組織の作り方がヤバいってことに

本気で気付く日々です。

 

女を従える男になるための組織ができあがっている。

男は、女を部下にすることが当然だと洗脳されて生きていく。

公務員の世界では少しずつ変わってきているけれど

他はそうじゃない。

 

そんな男と結婚したらそりゃそうなるわな。

 

でも、学者はそういう世界を知らないから

組織に突っ込めないし

組織を変えられない。

根深い問題だなあ。。。

 

女を部下として使える男になるかならないかが

出世する男かどうかの分かれ道。

妻を得て、会社でのうっぷんを晴らしたくなるのは

そういう事情が絡んでいることは間違いなくて。

だけど、それはもう、男社会を男が何とかするしかないんだけど

日本では難しいかもしれないね。

 

アメリカのドラマを見ていて、女性上司(普通の大企業)が男の部下二人の喧嘩をバシッと収めるシーンが出てきて気持ちいいのは、決して日本ではこういうことが起きないからだ。

 

窓口や営業などの最前線に立つのはいつも女で

それをまとめて管理するのが男。

男は、管理するためだけの研修を受けて、管理職になる。

 

そもそもの出発点がこれだから。

 

そして、それを当たり前として受け取る女がいる。

 

仕事は世界のルールじゃないけれど、仕事しかしらない男や女は

このルールを家庭でも守りたくなるものなのだろう。

学校と自分を同一視してしまうように。

 

けれど、じわじわと、そういう仕事から外れた男と女が増えて

女を従えることがステイタスだと思っている男は、外に居場所がなくなっていくかもしれない。そこが昔とは違うところだ。

 

守られて優しくされることを好む女ばかりだと思っていたら大間違いだということもわかるだろうし。

 

家庭は会社ではない。

会社という組織に守られるために、男に従う女という役割をやっているだけで

家庭という組織に守られることが幸せだとは思えない。

それがわからなくなったら家庭はただの職場になり、愛も恋も消えてしまうだろう。

 

家事をする女を従える男という構図は、日本の会社そのものなのだから。

 

若い人ほど、この感覚に染められていて

結婚した途端、家庭に会社や学校のような感覚を持ち込んで

恋も愛も失っていく。

だから、出会い系で彼女を探してる。

 

バカじゃないか~~~~

 

人生の楽しみの半分を失ってるよ。

 

「学校や会社の外に彼女が欲しい」っていうのと「家庭の外に彼女が欲しい」のを一緒にしてるんだもの。

 

だったら結婚なんてせずにひとりで恋を探したほうが

仕事も恋も充実すると思うけど。

 

「女を従える管理職の俺」をやりたいのなら、結婚はNG。

「一緒に何かをつくりあげるふたり」にならなくちゃね。

 

もったいないわ。

 

それにしても、昨日のお月様、きれいだったね!

 

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本当に潜在意識を知っているのか

ちょっと攻めたタイトルにしてみました。

 

人生半分を過ぎて

一番驚いているのは

大人であろうが、年寄であろうが、知らない人は知らないという事実でした。

 

若い頃、誰もが私より知識もあり、精神的にも大人だと信じていました。

だけど、なんてこった!

経験値の違いだけじゃないのか?

どうしてわかっていないのかがわからない!

ということばかりが起きる。

 

あの日あの時、私より世界を、世間を知ったかのような顔をして

教え諭そうとしてきた人たち・・・

なんだったの?みたいな。

 

で。

潜在意識にいきますけど。

 

願いだの悩みだのっていうことで

潜在意識に何かが入っていると思っているみたいですが

一番何も気にせずに生きていることこそ

潜在意識なんじゃないですか?って思うんです。

 

「男は」「女は」「親は」「子どもは」「人は」こうあるべきと

願いやら悩みやら以前にそういう思い込みでいっぱいいっぱいになってるってことに

誰も気づいていないみたい。

 

「今生きていて、見える世界限定」の潜在意識を必死で何とかしようとしてる~。

 

仕事を自由にしているように見える人でも

家族の中では家族の役割にがんじがらめになってたりしますけど

それって潜在意識の為せる業ですよね。

 

仕事の中で、宇宙だ、意識だ、波動だと言いながら

めっちゃ縛られてる人いますやん。

 

キリスト教だ、仏教だってそれだってそう。

別に誰かが記したものに縛られる必要なんてないはず。

そういう、過去の誰かが創り上げたものを信じるのも自由だけど

「これも自分の潜在意識に刷り込まれたものでジャッジしてるものなんだな」ということぐらいは、理解できそうなものだけど

どうもそういうことをはっきり明言する人には出会わないんだけど、どうしてかな。

 

どれだけ剥がしても剥がしても、この日本で育ってきた中で

染みついたもの、毎日毎日号令をかけられて学校で過ごしてきた雰囲気は

簡単に外せないですよ。

ちょっと勇気を出して仕事を作ってみた。

だけど、誰かを働かせてたらパワハラだと言われた、ブラックだと言われた。みたいなことね。

 

制限を取っ払ったかのように自分を見せてるけど

何も取れていない。

 

全部この今生きているルールにのっとってやってるだけのことやん。

 

ルールの中の勝ち組になってることが

そんなにすごいことなのかな。

確かに夢として描くのはおかしくもなんともないけど

単なるアメリカンドリームと何も変わらない夢であって

決して潜在意識を理解したから成功したわけじゃない。

 

この世のルールを知って勝ったんだと思うよ。

 

そしてその仕組みは、誰かが生み出したものだ。

 

宇宙じゃない。

 

山は緑と信じている、空は青いと信じている

それと同じように、人間とはこういうものだという刷り込みを

逃れている人はいない。

 

縛られていないのなら、どうして「家族愛」という単語を使うのか。

どうして「寂しい」「嬉しい」という単語を、何かの決めつけのように使うのか。

単なるこの命に色が付いているとでも思っているのだろうか。

 

悟りにも理解にも、終わりはないはずだよ。

 

この世を理解したいのなら、経済や医療や教育を知るために頑張ったらいい。

意識を飛ばす前にやることはいっぱいあるはずだ。

自分の感情や目に見えないものにかまけていても

そんなものは死ぬまでついてまわる。

それよりも。自分だけの、自分の世界を、自分の手で作るために動けばいいと思う。

 

目に見えないものが見えますって言ってる人が

隣の世話焼きおばちゃんレベルのアドバイスしかできないのって

村から出たことないからじゃないかなあって思ったりするんだよね。

それならまだ、婚活アドバイザーに話聞いたほうが間違いない!みたいなことはあると思う。

 

世の中には、信じられない経験をした人がいっぱいいて

わたしはどこにでも行ってしまうから

全然退屈しないんだけど

普通の人は、自分の世界はひとつしかなくて

そこからしか物事が捉えられないって感じがする。

 

ある意味、羨ましくもあるけど。

 

世界がたった一つしかない人にとっての潜在意識なんてたかが知れてるじゃない。

自分の中に眠っているものなんて

自分から飛び出して経験しないとわからないよ。

 

海外に行ったところで、日本人と日本語でしか会話しない人と同じ。

どんなに神秘的な考え方を知ったって、日常が「ママ友」「子育て」「良き妻」で溢れていたら、結局はそこに戻っていく。

 

それ以外の幸せも楽しみも知りようがない。

 

カウンセリングなども同じだと思う。

 

自分が経験していないことは、怖くて他人に勧められない。

だったら安全なほうを選ばせることになる。

 

そういうこと。

 

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理由を考えない、ただ見ること。

亀岡の山々と空を見るとスッキリします。

ドライブといい景色のセットが最高だと思う秋。

 

さて。

 

芸能界の悲しいニュースや不登校などの問題を見ると

とかく理由を知りたがる人の多いことに驚かされます。

関係ないんじゃないですか。

 

どうして理由を探って喜ぶのか、私にはよくわからないことです。

 

私自身、人生に困難なことがあるたびに

それを乗り越えたいだけなのに

いちいち理由を探してくれて、それはたいてい私に問題があることになって

乗り越えるだけでも必死なのに「あなたの原因を変えなきゃいけない」というプレッシャーまで背負わされて、やめてくれと思ったことが何度もあります。

 

理由を求めるのは本人だけでいいんですよ。

他人がその人の問題の理由を探る必要なんてどこにあるのでしょう。

 

いくら相談されたとしても、原因を推理することに時間を割くより

その問題を現実的に解決する術を、まずは探るのが先決です。

そうしないと生きていけないよ?

 

「なんでやろうなあ」なんて言っていられるうちは軽いもの。

「お前が悪い」「あなたに原因がある」「幼い頃のあれこれが今を悪くしている」等々根拠のない原因探しの結果、さらに相手を追い詰めてるケースがたくさんあることも、相談を受ける側はわかっていない。

 

カウンセリングなんてのは、余裕のある時に行くもので

生活に余裕がない時に必要なのは、現実的解決をしてくれるお金や法律家です。

 

身体を休める時間があるか

頭を空っぽにできるものがあるか

それを作ってあげられないのなら、何も言うな。責めるな。

 

生きるのに理由はないし

愛されてるかどうかなんて考える必要なんてない。

行動にも理由なんてない。

会社を休むのにいちいち理由がいると思ってる時点で、誰の相談にも乗っちゃだめですよね。

 

理由を求めすぎるこの社会がおかしいのであって

人間が何かをするのに理由は必要ありません。

 

ただ生きている人と生きるだけです。

 

「○○だからこうなったんでしょ」なんて言ったそばから嘘になる。

見えている結果を見て、次どうするかを考えるだけでいいのに。

 

私もずいぶん原因探しの旅に出ました。

でも、最終的にわかったのは、原因探しほど馬鹿らしいことはないってことでした。

どうして離婚するような羽目になったのか?

そんなの結婚した時にその芽はあったんです。いくらでも理由なんて考えられる。

どうして離婚していないのか?その理由も、幾千通りも考えられる。

その場その場で、一番聞こえのいい答えを探して言ってるだけです。誰もが。

 

「どうして」から導き出すような対策は間違いを起こす。

だって「今」を見ていないからです。

今生きているその人を直視しないで、過去ばかりを見るからです。

生きている人のそばにいて、話をして、何が困っているかを見つけられたら解決して、それ以外に何がありますか?

 

不登校の原因探しで一番腹立つこと知ってますか?

第一位は☆人と違うからじゃないですか?きっと将来何かやってくれるんですよ、学校に行かないなんてすごいですね!

です。

 

いい加減にしろとしか笑

 

産後鬱の時も、食事が原因だの、幼少期の愛情不足だのと色々言ってくれましたけど

産後鬱だったじゃんって20年も経ってからわかって気が抜けたし。

 

あの時、身体を酷使しすぎたために、脳がオーバーヒートしてあんなことになった。

休めて色々考えるきっかけにはなったけど、何のことはない、産後鬱でしかなかった。

 

身体が「休め」という信号を出して、休めなくなったら

脳は暴走します。

そしてあることないこと考えます。

「私の親は愛情をくれなかった」だの「周りとうまくいかないわたしはダメだ」だの。

その時はそう思ってしまうから、伝えられた人は「そうなんだ」と思い込んで接してしまう。

 

疲れてるだけやん・・・それも一年ぐらい療養が必要なぐらいに。

 

でも、早く回復させて、早くお金を稼ぐ人になって欲しいからって

自分のポリシー(例えば心の傷に注目させたり、その人の性格を問題視したり)を押し付けようとする人に出会ってしまうのが・・ねえ。

 

「この子はどうしてこうなんだろう」じゃないんです。

「この子はこうなんだね」でいいはずなのに、それを許せないのは子どもじゃなくて大人のほう。

何が困ってて何が必要か、見てあげればいいのに。

 

人が困っているのを見るのが下手な人がたくさんいます。

困っていることに対して手を差し伸べたくないから

理由を探して、全然別方向で自分が相手をコントロールする形で支援しようとする。

相手に主導権を握られたくないから、困ってる人のしもべになりそうだから

それが嫌で「原因探し」に必死になる。

 

「自殺をなくそう」じゃないんですよ。

学校で子どもをいじめるのをやめるだけでいいはずです。

親が子どもを守ればいいだけです。

すごく単純なことなのに、それはやりたくないのね。

 

絶対にやりたくないことがある、目を向けられたら困ることがある、教師や親や会社にとって譲れないことがある、だから、自殺されようが何されようが、別の問題を探してくるわけですよ。

 

私たちは絶対に変わらないから、別の原因を探して対処してくださいね、それで自殺が減ったらいいよね、って感じ。

 

カウンセラーなんて、学校や教師が酷いの知ってるはずなのに

何もできないでいる。

カウンセリングにかかっている個人の問題にすり替えて組織に報告するだけです。

 

心なんて深堀りしたら何でも出てくるよ。

それを誰が直視できるの?

自分に問題がないと思ってる人は、その怖さを知らない。

 

理由は問題ではない。大切なのは、今の状態を知り続けること。

今必要な手立てを取ること。今すぐに。それしかないやん。

 

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優しい人ほど恐ろしい

 いっきに秋が深まってきました。

 

わたしは毒舌ではあるけど

現実で人に対して

悪口や陰口を言わないし言うところもない。

 

うちのこがあーだこーだも一切言わなかったし。

 

ひとつ前に書いたことも

読み返してみたらキツイなと思わなくもないけど

誰もが、やさしさの内側に隠して蓋をして

だけど、自分にとって不都合な人物がやってくれば

そういう感じで牙を剥くよねっていう話でしかありません。

 

役所の窓口で断られる人

福祉関係の人から傷つけられる人

むちゃな要求をする職場の上司

辛い目に遭っても、「でもその人はいい人だよ、普段は」と言われて終わりになったりする。

 

それで終わりにするのが大人だと言われてる。

 

日本では、痛い目に遭った人ほど我慢させられ、自己責任で反省させられ

誰にも話しすら聞いてもらえない。

優しい人だと思って話を聞いてもらおうとすれば断られ、まるで話を持ち込んだ自分に非があるような気持ちにさせられることが多々あるということです。

 

でもそれについて、誰も何も言わない。

私はつい、書いてしまう。

それだけのことです。

 

誰にでもいい顔をした話を書くのは誰かがやってくれるでしょう。

誰も悪人にしない物語を作るのは、日本人の得意技です。

そうすれば自分は決して攻撃されないと思っている。

 

アメリカのドラマを見ていると、とても気持ちがいいのは

誰も取り繕わないし、取り繕っていることも露骨に言い合うところです。

「かわいそうだから」みたいな感情が存在していないみたい。

 

欲に忠実で、恋人同士でも仕事でやりあうし、きつい表現をしても誰も咎めなければ、誰一人それを抑えない。でも、お互いに信頼しあってる。

いちいち「その言葉には棘があります」みたいなことをちくちく言ってくる人は

一切出てこないんだよね。

 

他人を変えようとするより、自己主張を優先するところ。

それが生きづらい人もいるかもしれないけれど

少なくとも、「言葉の使い方がどうこう・・・」などという意味不明の感想を送ってくる日本よりずっとマシな気がしてます。

 

自分の主張を述べればいいだけなのに、なんで相手をやり込めようとする?

そうまでして相手の言動を封じたい?

そうしなければ自分の意見も言えないの?

 

どんな人にもどんな団体にもいい部分なんていくらでも見つかるし、いくらでも自分で宣伝していらっしゃるし、誰にでも伝わってる。

だけど、その中にある闇については、絶対に自分自身で語ろうとしない。

そりゃ不利になるし、嫌なのは理解できるけど。

 

個人であれば、自己分析ができるのが大人なはずなのだけど

なぜか不都合な部分に目を瞑るのが社会人だ、という論理があるのは

とっても不思議なことですよ。

 

自分が悪いと思っている部分を愛してあげて、と言ってる人たちは

団体や教祖と崇める人たちの悪い部分を明るみにしてあげることにどうして反対するのかしら。

悪い部分を認めて愛してあげたらいいんじゃないの?

 

自分で自分を愛していれば、攻撃されることはないって誰かが言ってたけど。

色々と矛盾があるよね。あちこちに。

 

私は一度霊能者から「SIね」と言われたことがあるし

「地獄へ落ちろ」と聖職者から言われた経験のある有名人もけっこういるらしくて。

今も私は、愛より悪のほうに魅かれてるし、そっか地獄って楽しそうかもしれないと思うし、あの人たちが神様に愛されて天国に行くなら私は別の場所でもいいかなと思ったりするよ。

 

表がしんどくて、裏で必死で生きようとしている人たちがいる。

とってもラブリーだと思う。

離婚して初めて出会った世界の人たちが、私の視野を広げてくれた。

キレイキレイな場所が排除してきた私の負の部分を

何も言わずに受け入れる人がいるなんて、これまでの人生で考えたこともなかった。

 

夜の世界を排除したい人たちは、その世界の人たちに救われてる人間を救うことはできないんだよ。表の世界が好む人間を選んでいるから。

 

スピも自然派も人を選別してる。そのことに少しは気づいてくれるといいなと思ってる。

 

毒や悪を嫌うなら嫌えばいい。

善には不信感しかないし、別に私はかまわない。自分の人生を全うできればいい。

 

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私にできることは

昨日、私のTwitterらんどで異変がありました。

まったくいいねも付かない、ただのつぶやきでしかないのですが

スピと自然派が融合したような(これはよくあること)ことを発信しているtweet

いやさすがにこれは反論されても仕方ないよね、ということを言ってたので

その通りの↑ことを書いたところ

いくつかのコメントをいただきました。

 

その是非について書きたいわけではありません。

 

それよりも、私自身が長年心と頭に引っかかっていたことが線を結び

「やっぱりそうなるのか」というメカニズムが理解できた気がしたので

そこんところを書きたいと思います。

 

スピや自然派にのめり込む人たちがすべてそうではありませんが

やはり心に傷を抱えた人たちがハマりやすいのはあると思います。

そして、自分なりに克服した、現実世界で生きていけるような力を得た、有名になった、ということから、ご自分を過剰に宣伝していく流れがあって、傷を持った人のエネルギーはものすごくて、その無意識のところで「復讐」という文字があるんじゃないかと思われるぐらいのパワーで世の中にコミットしていく。

 

そこに、スピな理論や、ちょっとずれた自然派思想が入り込んでいくのが

長年その界隈を観察してきた私の見立てです。

 

私がコメントをいただいた中に「善意に攻撃するようなコメントをするな」というものと、もうひとつ優生思想を持っている人のものがありました。

 

・自分たちが善意だと受け取るものに対しての意見は受け付けない。それは悪意である。という短絡的思考。

・強い者が生き残るのは生物として当然だ、という優生思想

 

この二つが私の元に届いたということで確信したのです。

 

そもそもの発端は「江戸時代は○○という病気は今より少なかった」という誰も数字を上げることができない、根拠のない発言だったわけです(根拠はあるとおっしゃってましたがそもそも、その時代に国民の病気を調べ尽した人などいないことぐらいは誰にだってわかるし、寿命が短いわけですから、そのような病気になる以前に亡くなることのほうが多いかもしれず、ぐらいの想像は勉強してればわかるはずですが)。

 

「今の薬漬けの医療に対する危惧」を伝えたいがために、江戸時代をわざわざ例に出してしまい、それによってあちこちから「それおかしいで」と突っ込まれただけなんですよね。別に人格ややってることが攻撃されたわけではない。

 

なのに、それに対する反論が優生思想と短絡思考だった。

 

自然派の団体に少しの期間いたからわかるんですけど

無農薬がいいとか、添加物がどうとか、それはそれで間違ってないけれど

なぜか陰謀論的なものや、宗教的な方向に走ってしまう人が多い。

きれい、うつくしい、汚れていない、みたいなキーワードで生きてしまうと

最終的に行き着くのは、人間という、そもそも美しくないモノへの否定と、選別する思考。

自分たちに優しくしてくれない、わかってくれない人はみんな敵だ、みたいになるし。

微生物や虫たちにはやさしいのに、人間に対してはやさしくないみたいな。

 

そもそも、いいお野菜とお米で子ども食堂なんてできません、高くて。

わたしは、鬱病の時期にそこにいたのですが、精神疾患に対する理解を正しくしようとする人はいませんでした。

そんなのいいお野菜食べたら治るのに、ぐらいの軽さ(笑)

そこの人たちが軽蔑している向精神薬によって生かされてる私は、いわゆる劣等生扱いでした。

 

自然派とスピに共通する、強烈な承認欲求(しかも自分たちは気づいていない)は、世間からの拒絶を当然のように生み出していて、それ故、さらに信者が理屈の通らないことを言いだす流れになっていく、みたいなところがあります。

 

普通に「これは良くないから変えていこう。どうやって?」という話なら誰もが理解できるのですが、そこに「批判はダメ」「愛によって変えるのだ」「やってることはいいことだから反対する人がおかしいのだ」という思想が混じってくるのがもう、ヤバくなる前兆だと思われるんですが、どうでしょうか。

そこに通じるものって全部「私を愛して」「私を認めて」に集約されるような気がしています。

 

自分で自分を愛せていれば、他者からの批判にそこまで弱くならないはずだし

突っ込みどころがいくつもあるような、理系真っ青なおかしな理屈を「特別な人だけがわかること」と思ってしまうのは、自分を愛せない心の裏返しのような・・・。

 

自然派、無農薬、江戸時代、スピリチュアルと

天皇崇拝や自己責任論、歴史ねつ造は、ホントに近しいところにあるのだなと思わずにいられません。

 

私は、そうじゃないと思いたかったんです。

子ども達にいい野菜を食べさせたい、お金より心の時代が来てほしいって真剣に願う人たちは、決して歴史を歪めないし、間違った実験を信じたりしないと思いたかった。

 

でも、違った。しかも、私が愛する児童文学を象徴に祭り上げる人もいて。

それがとても悲しかったことを覚えています。

 

みんないい人なんですよ。優しくて弱くて。

マルチにハマる人も、怪しげな商売を広げる人も、どこか傷ついた顔をしている。

 

私は今、具体的に何かをしているわけではないのですが

出会った人たちとのおしゃべりを通して、たくさんのことをアウトプットしたり

その人の心の奥にあったものを出してもらえるような自分でいることを心がけています。

 

誰もが、家族、会社、地域、信仰といった狭い場所に自分を閉じ込めていて

その中で通じることしか考えていません。

外の世界が広いことも、たくさんの考え方に満ちていることも

なかなか理解できません。

わたしは、どこにでも出向き、どんな人とでも出会い

その人の心に新しい風を置いていきます。

 

今できることはそれぐらいだと思ってやっています。

このブログもその一環です。

 

社会が苦しくなればなるほど、人は内側に籠り、自分に対するいい評価だけを求め、権力者に歯向かわない自分であることに喜びを感じる傾向があるのかもしれないんですけど、それってどうなの?と私は思います。

 

江戸時代すばらしい、弱いものは淘汰されるのが当たり前だ、年貢を納める人だけが優遇されるのだ、偉い人には逆らっちゃいけないんだ・・・ってもう時代逆行も甚だしいんですけど!そこまで退行したいんでしょうかね、日本人は~~~

って思うから、思うから!!

 

自分にできることは何かを今一度明確にしていこうと思います。

 

祖父母が体験した戦争の傷。そこに起因した子どもの放置、虐待。その末の今。

そして、克服したと思いたい、強くなったと思いたい、からの~自己顕示欲。

世界から愛されたい承認欲求。

まさにここ。

 

のびのびと生きたいよね。何から始めようか。

 

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今を生きている、ということ

私たちは、今を生きています。

過去から引き継いで今日まで生きてきました。

反省はしても、過去を美化したり賛美することで得られることはありません。

 

それがわからないから

戦時中の雰囲気に憧れたり、

幕末に憧れたり

江戸時代には日本は美しかったなどと

過去のあちこちにヒントをもらおうとするだけでなく

その時代にすべてを求めようとする傾向があるのは

とても不思議なことのように思います。

 

自分自身の主張に間違いがないと思っているのなら

わざわざ過去にその主張の原因があるかのような言い方はしなくていいと思うんです。

今の時代に、今を生きている自分自身そのもので

話をすればいい。

 

すべてのことにプラスとマイナスがあって

そのどちらも「あり」の中で生きている。

どうすればこれから良くなるか、という話をする時に

過去を美化する必要はない。

 

過去には過去のマイナス点が必ずあるのに

美化する人たちは、意図してそのマイナスを語らない。

わたしはそれが気に入らないなあといつも思うのです。

 

こういうこともあった、こういう悲劇もあった。

だけど、ここだけは真似できないか、ということなら

私にもわかる。

 

だけど、まるでその時代すべてが良かったかのような

錯覚を起こさせる言葉を使って人を誘導する人がいることに対して

私はまあ、賛成できないわけです。

人として。

 

それが私という人間です。

 

さて。

 

過去に学ぶ人たちが、往々にして過去の汚点についてわざと語らないようにすることと、欠点と長所を並べることができず、ただ欠点について語ることを嫌い、それをネガティブな攻撃だととらえてしまうのは残念なこと。

 

すべてを包括しているこの地球で

自分(を賛成してくれる人、の主張を認めてくれる人、に反対しない人)たちだけは美しいはずだ、ということでしか生きられないとすれば、

それはいつか他者をシャットアウトすることになるだろうと思います。

 

戦時中を賛美する人と江戸時代を懐かしむ人には

共通点があると思っていて

その直感ははずれていないと思ってます。

 

とにかく「今」の「何か」が嫌いで、攻撃したいけど

自分が攻撃しているように見られたくないから

「あの時代はよかった、あの時代と比べて今は」と言うことで自分を守ってる気がするんです。

 

「いいこと」の仮面の下で、「今の何か」を必死で攻撃しようとしてる。

だから、反対意見を受け入れないし、攻撃だと受け取るんじゃないかなあ。

医療や農業や何かに不満があるなら、自分の中にあるその不満とやらを

しっかり発信すればいいのに、自分を「いい人」に見せたいがために

不満としてでなく、「昔はよかった」「昔に戻そうとしている自分は美しい」みたいなものを振りまいてしまう気がします。(政治屋さんもそういうとこあると思ってる)

 

きちんと声を上げて、活動をしている人のほうが、

ずっと正直で私は好きです。

これが嫌い、だから改善したい、という願いのストレートさに

私は心を打たれる。

 

311のあと、原発反対と電気を使わないことがごっちゃになった界隈がありましたよね。今はどうしているか知らないけれど。

わたしは、電気を使わなきゃ生きられない人たちがいるのを知っていたし

私自身も、冷房も暖房も必須な人です。

山奥で電気もない、自分で畑を耕さなければいけない環境におかれてしまえば

私の寿命なんてどれほど短いかと思う。

 

原発に頼らなくてもいい、かつ電気が使える社会を目指せばいいと思うのに

どうして「原始的な生活に戻れ」という主張になってしまうのだろうかと不思議でなりませんでした。

 

そんなに体力のない、弱い人たちを淘汰したいんだろうかと思ったものです。

 

体力があって、自然の中に放たれても生きていける男と、医療機器がなくても出産できる強い女性だけの世界に戻したいのか、すげーなとしか思わなかったし、あれから、自然派に対する考えはまったく変わってしまいました。

 

今の生活を崩さない方法で、今の生活がよりよくなる方向で

発明や発見をすることもできるはずなのに。なぜ昔に戻りたい?

 

若さってそういうことで想像力の及ばない部分がありますが、自分ではわからない。

私もそうだった時もあるからわかる、だからこそ、この歳で言わなきゃいけないことは言うのです。

 

わたしだってわたしのご先祖さんが生き延びてくれたことを感謝しているけれど

農家で祖母がどれだけ姑にいじめられながら、肥溜めから肥料をかついで「無農薬の」米と野菜を作って働かない祖父と家族を支えたかという話を聞くとね。

無農薬と、人間の尊厳をはかりにかけたら、わたしは女性がいじめられないほうを選びたい。

 

今の時代でできることを、今の時代で考えてやっていくしかないのだと思います。

 

過去を例に出したり、比べようもないことを比べて根拠にしようとすることなんて必要ないじゃん。それこそ現在に対しての攻撃でしかない。

今想像でき得ることの最高を求めていくのが筋だと思うけどな。

 

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マイナーを渡り歩く

こんなに雨が降るのはいつぶり?

お仕事の方々、お疲れ様です。

 

自分の歴史を振り返ってやっと気づいたことがある。

わたしは、マイナーな世界に興味がありすぎて

そこにいる人たちと知りあいたい、話を聞きたいという願いに突き動かされて

生きてきたようである。

 

自分の周囲(家族親戚、結婚相手の親族、最初の仕事界隈)が、とにかく「自分自身は普通でまともだ」と思っていることが不思議で、おかしくて、そう思えない私自身はいったい何なのかという疑問が出発点だった気がする。

 

あなたたちがまともなら、わたしはなんなの?っていうところ。

 

そして、日本ではメジャーでない育児や教育、ロハスや占い界隈、そしてまた、もっとコアな人たちに出会うようになった。

マイナーな場所にいる人たちは、それこそ、メジャーな場所にいる人たちと同様、すごい人もいれば、ゲスな人もいる。

マイナーな場所にいることだけで「わたしは特別」と思い込んでいるダメな人が多いのも特徴だ。

 

その分野で秀でている人に会いたいなあと思いながら彷徨っていたけれど

結局のところ、マイナーな場所で頑張ってる人でまともな人というのは

一般社会に基盤を持ちつつ、自分の趣味との兼ね合いを探っている人に多かった。

マイナーな場所しか居場所がない=わたしは被害者、といううっすらとしたものがあって(占い師なんてほとんどがそうじゃないだろうか)

だから特別になりたい!という欲望をたぎらせている人のほうが多いかもしれない。

 

昔は本当にマイナーな場所でひっそりとやっていたがゆえに

プライドを持って、自分の資質を高めていこうとしている人たちがいるイメージがあったけど

今や、簡単に起業できる仕事として表に出過ぎてしまい

社会人経験も苦労もしていない人が、占いでお金儲けしながらマウンティングできるやん、的なことをやってる。

 

それはもう、水商売をやってる人たちがピンキリなのと全く同じ構図になっている。

 

どこにいても、何をしてても

結局は人間性がすべてで

「何をしているか」は全く関係ない、というのが

はっきりと見えてきたところ。

 

ロハスがブームの時は、無農薬だ、安全な食だと言ってる人たちは、自分こそが世界の救世主であるかのようにふるまっていて、それはそれですごいことだと思ったけれど

その一方で、普通に男女差別してたり、弱者に寄り添わない発言をしたり、精神疾患への思い込みがきつい人がいたりして、「・・・・一体これはどういうことなのだ・・・」という疑問が膨れ上がったこともあった。

 

不登校支援をしている人でもパワハラをするし

精神疾患関係の支援をしている人も性的虐待をうまく処理できないし

精神世界の大御所と言われる人たちも、日本の政治については手も出せない。(なんか見た)➡結局引っ込んで祈ってるだけの人になる。

 

人は完ぺきではないが、だからって、自分を特別視してしまうことで、大切なものを見失うというのは、「人間ならでは」なのかそれとも、何かを気づかせるためにあるのか。

 

その一方で、本気で自分自身と向き合うことで

マイナーな世界で哲学の域に達している人もいる。

その数少ない極めている人に出会えた時、私の心はワクワクする。

 

誰にも気づかれないところでひっそりと重ねられている技と

積み重ねられた思想は尊い

 

世間知らずで毒親育ちのお嬢さんたちに踏み荒らされてる精神世界業界は

もはや面白みが失われてきたし(あれはもはや、客を相手に自分をカウンセリングしてるんだな)

コロナの世界では、自然派っていうのは単なる勝ち組にしか過ぎないんじゃないかなと思ってしまう。

 

今の日本を創り上げたのは、潜在意識系の人たちが言う通り

多くの人たちがそう願ったからで

そこには当然、精神世界系の人たちのネガティブな気持ちも含まれている。

 

その話はまた後日。

 

生きづらさを、自分を向上するために使う人は少なくて

生きづらさを金儲けや権力に向けてしまう人がいる。

取り込まれてしまう心の弱さが、他人を抑圧して搾取する力を持とうとしてしまう悲劇になって繰り返されているのかもしれないね。

 

それでも、これからも、マイナーな世界の人たちの声を聴く趣味を続ける。

どんなに「ヤバいなこれ」と思うことがあっても

その中に宝石が一粒だけ転がってたりするからやめられない。

 

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