風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

いつか何かに使うとして

昨日山に行って正解。

今日は雨。

 

上等の採れたて卵を、昨晩に生でいただいた。

今朝、すっきりしている。

卵はパワーだな。

 

昨日のアマプラは「天河殺人事件(浅見光彦シリーズ)」

 

かなり古い作品で、俳優さんが若くてびっくりしたこともあるけど

能のシーンが多くて楽しめた。

昔の映画ってお金かかってるし、そこは見せて間違いのないものを、どんなにエンタメだろうが作っていたのだと思った。

 

昨今、天河神社がパワースポットとして騒がれて

私もその情報のおかげで、訪問することができたわけだけど

そもそも、日本の芸能について全く知らない人たちが

「ご利益」だけで参拝したのかと思うと、

古典好きな私から見ると、なんだかなあという世界だった。

 

とても好きだった彼が

古事記読むなら原文からだよね」と言ってて

そういうところが大好きだったのだけど

自分で原文を読みもしないで、誰かからの受け売りで、古事記がどうのこうのと講釈垂れてるスピ界隈に居続けた自分を、その時は本当に恥ずかしいと思った。

 

どんなに勉強嫌いで大人になったからって

それがコンプレックスになって

簡単な解釈してくれる人に群がって知識を得たような気になるのは

本当におかしいと思ってるし

いや、私は純粋にファンタジーとして受け取ってると思ってたんだ、自分がそうだから。

でもそうではなくて、勉強する気もないのに、自分が信じたい部分だけを切り取って学んだ気になってるんだ!ということを発見した時の驚き。そして、がっかり感。

 

中途半端に勉強できる人がそういうのを先導しているのも嫌だけど。

 

わたしは、原典に当たろうとする人のほうがずっといいと思うし、それで無理ならいくつかの本にあたるのがベストだ。

 

その彼は「ちはやふる」も好きで、ラインに和歌を送ってきてくれたりもした。

(このネタはいつか何かに使うつもりでいるけれど、なかなか良かったんだこれが)

 

教養のあるなしは、私にはとても大切な判断基準でもある。

うっかり知性のないところに足を踏み込むと、そこはスピとマルチが合体した混とんとしたところで、偽の心理学が大手を振って歩いている。

 

人としてどうこうというのは、また別の話ではあるけれど

どんなに優しかろうがいい人だろうが

間違った知識で人を誘導し、お金のやり取りが発生する時点で、人物として疑われることは間違いないと思う。

 

うまくいかなかった彼だけど、そういう気づきを私に与えてくれたという点で

出会わずにはいられなかったんだろうと今は思っている。

彼と出会って自分が古典好きだったことを一瞬で思い出した。

そして、それにも関わらず、トンデモなことを言ってる人たちの界隈のすぐそばにいたことに気づいてしまった。正気に返ったって言ったらいいのかな。

 

超能力やUFOを信じることと、古典を曲げて解釈することは全く別物で、後者は罪だと思う。

 

日本語は昔から当て字は多いし、ふわっとした感覚の言葉だから

誰が何しようが、昔の人が聞いたら会話にならないような言葉を発明しようが

それこそが日本語っぽいんだろうと思うけど

それでもね。

日本語が大切だというのなら、本気で大切にしたらどうよ?

語源を調べたの?自分で図書館に行ったの?辞書引いたの?って思う。

 

財界で成功した人が言ってるから正しいとかマジか?どんな学者でも、自分で調べて納得するまでは信じないもんだけどな!っていう当たり前のことが

「日本ダイスキ」「日本語すげ~」な人たちに通じないってどういうことよ。

 

とまあ、図書館でレファレンス担当してきた私は思うわけです。

当たり前ですが。

人を批判しない、という風潮があり、そこには、「どんなことしてお金儲けても、学問を冒とくしてもわたし、許されちゃうよね」という都合の良さが見え隠れしている。

えっと・・・批判しないはいいとして・・・

「私はそういうのは違うと思うし、違う生き方していくし、認めないよ」と

堂々と言うことをどうして私はためらっていたのかと思う。

 

その人物を受け入れることと、その人と自分との違いを認めることは全く違うことで

「受け入れてくれるんでしょ、私の言うこと全部正しいと思ってくれるでしょ」になってる部分がめちゃくちゃ多い気がする今日この頃です。

 

雨が強くなってきた。

 

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