ひとあんしん
ひとまず、懸案だったことが終わった。
終わってみれば、楽しかったの一言である。
最初、私に対して恐る恐るだった同僚が
今では戦友のよう。
みな、ひとりひとりで職場で闘っているのだ。
だから、「上にいらんこと言ってるから落ちるかもね」というジョークを飛ばしあえる。なんて幸せなんだろう。
結果などどうでもよい。
今日は、つるまなくてもいい心の交流があることを再確認できた。
一緒にいることが絆ではない。
たまに会って話した時に、理解しあえればいい。
私が入った時にはバラバラだった人たちが
なんとな~くいい感じでゆるくつなってる。
言いたいことを堂々と言ってる。
それを見るだけで私はムネアツだよ。
私は役目を果たした。
そして、ちょっと思ったんだけどね。
「私は苦手な人などいません」と言ってる人は
おそらく、誰かがその人が苦手だなあと思っても、気づかない人なんだな。
繊細で気付ける人は、すぐに傷ついてしまうし、苦手な人がどこにでも現れる。
わたしはそれが悪いことだとは思わないんだ。
逆に、「嫌な人がいない」と言ってる人に限って、周囲に「あの人、苦手なんだよね」と陰で言われてる可能性はある。「ま、言ってもわからないだろうし」と放っておかれていることも。
そう、昨日予告していた「嫌いな人」や「苦手な人」あるいは、「うまくいかないこと」が自己肯定感を上げるチャンスになったりするって話。
気付ける人は幸いなのだ。
自分の中にある「成長の種」に出会えるから。
芸能人の不倫報道を見てても思うけれど
「うまくいってるように見せる」ことは意外と簡単なのかもしれないよね。
見ないふり、見えない鈍感さによって。
夫の文句を言いながら、結婚生活を続けてる夫婦ってそうだと思う。
鈍感さを「優秀さ」と勘違いしている。
自分の中で泣いてる自分、自分の中で抑圧している自分に出会うためには
現実の「嫌なこと」と向き合わざるを得ない。
それをやらなきゃ見えない。
偽の幸せの最中に、置いてきぼりにしてきた過去の自分は出てこない。
わたしは、恋愛がうまくいかなくなったり、職場で悔しい思いをするたびに泣いていたけれど、そうやって向き合ってきた結果
どんどん自分の中にある否定的な感情が減って行ったのは事実。
で、「あ、この人に出会ったのは自分を確認するためなんだな」と思えるようになった。
それは、誰かにそうしろと強制されたからではない。
マジで「こいつの最悪の部分、私とそっくりだ」と素直に思えるのだから。
だから、人を愛おしいと思う。
自分を抱きしめるように、他人を抱きしめたいと思える。
だからね、嫌な出来事は嫌だけど、肉体もぼろぼろにされるけど
その「嫌な気持ち」がず~っと自分を壊し続けてきたのだと思うと
いわゆる「風邪で高熱がっでてしんどいけど、熱が下がってすっきりするよ!」と同じ状態になる。
ウィルスのように、自分を攻撃する感情ってのが、潜伏してるんだ。
それが「嫌な出来事」として発症する。
ウィルスを認めてなだめてやれば、
それは免疫に変化する。
自分を守ってくれるようになる。
だから、「嫌な出来事」がやってきてしまった時には、ちょっと降参して、ゆっくり休んで、嫌な感情をいっぱい出したらいいと思うよ。
解決しようと焦らなくていいから。
そしたらきっと、いつか、自分を守ってくれる思い出になる。
大丈夫。一緒にやろう。
さ、今日はゆっくり寝よう。