風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

ひとあんしん

ひとまず、懸案だったことが終わった。

終わってみれば、楽しかったの一言である。

最初、私に対して恐る恐るだった同僚が

今では戦友のよう。

みな、ひとりひとりで職場で闘っているのだ。

だから、「上にいらんこと言ってるから落ちるかもね」というジョークを飛ばしあえる。なんて幸せなんだろう。

 

結果などどうでもよい。

今日は、つるまなくてもいい心の交流があることを再確認できた。

 

一緒にいることが絆ではない。

たまに会って話した時に、理解しあえればいい。

 

私が入った時にはバラバラだった人たちが

なんとな~くいい感じでゆるくつなってる。

言いたいことを堂々と言ってる。

それを見るだけで私はムネアツだよ。

 

私は役目を果たした。

 

そして、ちょっと思ったんだけどね。

「私は苦手な人などいません」と言ってる人は

おそらく、誰かがその人が苦手だなあと思っても、気づかない人なんだな。

繊細で気付ける人は、すぐに傷ついてしまうし、苦手な人がどこにでも現れる。

わたしはそれが悪いことだとは思わないんだ。

 

逆に、「嫌な人がいない」と言ってる人に限って、周囲に「あの人、苦手なんだよね」と陰で言われてる可能性はある。「ま、言ってもわからないだろうし」と放っておかれていることも。

 

そう、昨日予告していた「嫌いな人」や「苦手な人」あるいは、「うまくいかないこと」が自己肯定感を上げるチャンスになったりするって話。

気付ける人は幸いなのだ。

自分の中にある「成長の種」に出会えるから。

 

芸能人の不倫報道を見てても思うけれど

「うまくいってるように見せる」ことは意外と簡単なのかもしれないよね。

見ないふり、見えない鈍感さによって。

夫の文句を言いながら、結婚生活を続けてる夫婦ってそうだと思う。

鈍感さを「優秀さ」と勘違いしている。

 

自分の中で泣いてる自分、自分の中で抑圧している自分に出会うためには

現実の「嫌なこと」と向き合わざるを得ない。

それをやらなきゃ見えない。

偽の幸せの最中に、置いてきぼりにしてきた過去の自分は出てこない。

 

わたしは、恋愛がうまくいかなくなったり、職場で悔しい思いをするたびに泣いていたけれど、そうやって向き合ってきた結果

どんどん自分の中にある否定的な感情が減って行ったのは事実。

で、「あ、この人に出会ったのは自分を確認するためなんだな」と思えるようになった。

それは、誰かにそうしろと強制されたからではない。

マジで「こいつの最悪の部分、私とそっくりだ」と素直に思えるのだから。

 

だから、人を愛おしいと思う。

自分を抱きしめるように、他人を抱きしめたいと思える。

 

だからね、嫌な出来事は嫌だけど、肉体もぼろぼろにされるけど

その「嫌な気持ち」がず~っと自分を壊し続けてきたのだと思うと

いわゆる「風邪で高熱がっでてしんどいけど、熱が下がってすっきりするよ!」と同じ状態になる。

 

ウィルスのように、自分を攻撃する感情ってのが、潜伏してるんだ。

それが「嫌な出来事」として発症する。

ウィルスを認めてなだめてやれば、

それは免疫に変化する。

 

自分を守ってくれるようになる。

 

だから、「嫌な出来事」がやってきてしまった時には、ちょっと降参して、ゆっくり休んで、嫌な感情をいっぱい出したらいいと思うよ。

 

解決しようと焦らなくていいから。

 

そしたらきっと、いつか、自分を守ってくれる思い出になる。

 

大丈夫。一緒にやろう。

 

さ、今日はゆっくり寝よう。