大丈夫
激動の一ヶ月が過ぎました。
今は、少し退屈で穏やかな日を過ごしつつあります。
大きな出来事が起きることは
とても大きな恵みであることが多く
それはまた、マイナスのように見えるものです。
自分を正当化せず、ただその物事に向き合うだけでいい。
すると、自分が抱えていたものを手放せるきっかけになってたことに
気付けたりします。
自分が合ってるか間違っているかではなく
相手が正解かどうかでもなく
そこに起きた事実と、それが自分にとっての何かがわかればよいですね。
わたしは、衝撃的なことも起きるけれど
泥臭いことも地道にやれる人です。
二年かけて信頼を築くとか。
ブログもかれこれ10年以上やっているので
別に何かを教えていないけれども
私のブログで何かを感じた人はそれなりにいらっしゃるはず。
誰かを説得するために言葉を発するのではなく
その人の心の奥底が動けばいいな、といつも思っています。
どう見えるかは別として
わたしは、自分のことをくだらない人間だとはっきりと認識しています。
決して立派な人ではない。
それは、幼い頃からの不器用さだったり、人とうまくやれないことだったり。
だからこそ、どんなことであっても、誰かを裁ける立場になれないです。
私が、蜷川実花監督の映画「太宰治」を気持ちよく鑑賞できたのも
そこに出てくる女性たちが、誰一人、女性同士で裁かなかったから。
自分自身の愛をまっすぐに貫いたことだけが描かれていて
その愛に右往左往する優男の太宰治のかわいらしさがありました。
あの女性がこうだからダメなんだ、あの女性のここがひどいから太宰治はそうじゃない私を愛してるんだ、などという言い訳が一度も出てこなかった。
三人三様の愛し方を見せてもらったなあというところが、わたしは好きでした。
好みと正義は違いますよね。
わたしはどちらかというと、とち狂うタイプなので
冷静な正義の側には立てない、というデフォルトがあります。
冷静さを売りにする人って気持ち悪くて。
人間として生まれて、生きて。
どうして感情をぶつけて「お互い様」であることを選ばないのか。
なぜ自分が冷静で正しい立場に立つことで、感情的な相手を貶めるのか。
私もあなたもくだらないよね~って思えたら
世の中平和になる気がしててね。
わたしはいつも捨て身で、ボロボロになりながらまた試合に向かっていくロッキーのようだなあと思うんですけれど
それはつまり、自分の命や自分自身を信じているからなのかもしれません。
自分の好きなものに向かって体当たりするほうがいい。
猿山のボスをやるぐらいなら、群れから離れて野山を駆け回ったほうがいい。
先日、職場を離れた人からプレゼントをいただきました。
今の職場で、わたしは最初、異端でした。
私の存在を遠巻きにみな、見ていたものです。
けれど、自分を曲げず、何も言わず、ただ黙々と人をつないだり
プロとして仕事をする中で
徐々に信頼をしていただけるようになりました。
とても嫌なこともあったのですが
自分を正当化することをやめ、嫌なことをするその人たちから距離を取り
自分のやるべきことだけを淡々とこなしているだけで
状況は少しずつ変わっていきました。
「自分はどうありたいか」だけに焦点を絞って生きるのは
ある意味とてもキツいです。
愚痴は聞いてもらうし、悲しかった、辛かったという感情はちゃんと味わいます。
その上で、私がその人より、人格的に上であるとか、その人がダメな人であるとかいうことは一切口にしない、思わないよう心がけてみました。
それを考えそうになるたびに「私は今、何をする?」に変換する。
誰のために今、仕事する?と自問自答する。
意志の力を発揮して、今できる最善をやるのです。
たぶん、恋でも同じこと。
自分の立場がどうかなんて関係なくて、
周りに認めてもらう必要もなくて
相手にとってどんな存在かがわかればいい。
他人に自分のことを「正しい」と認めてもらうことが目的ではないから。
私が心地いい生き方をするのが目的だから。
恋に狂って相手も自分も傷つけてボロボロになる人が
人間らしくて好きなんです。。
それぐらいの情熱を注げたら、本望じゃない?
だから、大丈夫。
どこにいても何をしてても。
わたしたちは。