当たり前の世界へ
昨日は京都へ。
相変わらず多くの人で賑わっていました。
必ず和菓子と漬物を買って帰ります。
私の周りが少しずつ変わり始めてきました。
問題がなくなったわけでもなく、相変わらず寂しかったり悲しかったりもあります。
だけど、なんだろうな。
自分が卑屈になるシーンが減ったような感覚。
でもこれ、生まれた時からこの感覚で生きててよかったんじゃね?と私は思うんです。
日本の女性の扱いがあまりにもひどい。
家庭の中でも、父親から「男を気持ちよくさせる存在であれ」という無意識の抑圧がある。母親からは意味のない嫉妬を受ける。
女性が育つ集団がいびつになったり、自分を否定してしまうのは当然だと私は思うのです。
女性が生まれた時からのびのびと育ち、男性の視線など気にしなくてよかったら。
もっと早く、自分を確立し、堂々と恋愛していると思うし、子育てにこれほど変な悩み方をする人も減ったのではないだろうかと。
そう思うと、まるで女性の内面だけが問題であるかのようなカウンセリングやセラピーの「そもそもの在り方」がおかしいのかもしれないですよね。
だって誰にも問題なんてない。
問題があるかのように思わされているだけ。
依存があると勘違いしたり、現実がうまくいかないことを「解決するべきこと」と思い込んだり、そのために誰かに「私についてくればいい」と思わされたりする。
人生に解決するべきことなどないとわかったら
もっともっと心安らかにいられる。
出来事が見せてくれているのは、単なる映画に過ぎなくて
それを見て悲しんだり、泣いたりしている。
女性だからこうすべきとか、愛されなくちゃとか、パートナーを見つけなければとか、見つかったら大事にしなくちゃとか、愛さなくちゃとか。
子どももそうだよね。子どもを愛さなくちゃとか、うまく育てなくちゃとか。
そうなってないのは、自分に問題があって自分を生きていないからだとか。
それも思い込み。
あなたに問題はなかったとしたら。
何も問題などなかったとしたら。
びっくりするよ。
自分の行動を決めることは、解決することとは全く別の話なんです。
嫌な場所から逃げるということを決める。
でも、トラブルは解決しない。
それでいい。
解決してから逃げようと思うから、逃げれない。
解決する方法ばかり、アドバイスするけれど、解決いらない、まず行動。
男性の気持ちを慮りすぎ。
相手を見くびりすぎ。
それは女性にとって危険だからだけど。危険だと思わされていたからなんだけど。
自分が悪いと思っていればとりあえず危険ではないと思い込んでいた世界から、自分は悪くない、思い通りに生きても大丈夫、と思う世界へワープすればいい。
あなたが問題である、と思い込ませる場所から逃げること。
それはカウンセリングであろうがどこであろうが、あなたの味方のふりをして、あなたを問題児であるかのように、導く人からも逃げるんだよ。
そして、怖くても自分で決めて、自分で進むことです。
それは、頼ってくれるから生きていけるという毒親のような人をも開放する。
どうか、やってみてほしいな。
何をちらつかされても、脅されても、気にしない。スルーする。
そしたら、自分も脅さなくなる。誰のことも支配しなくなる。
悲しみも辛さも、自分のものだから。誰のものでもないから。分かち合ってくれるという幻想を持っている以上、ひとりでいられない。
そして、自分で引き受けると、本当の意味で助けてくれる人が現れると思うけど。
私もまだ、途中の途中だけど、軽やかになりました。
軽やかになると、できていないところや、どうしたいかもはっきりするから、やっとスタートラインに立った気がしています。
自己肯定感を養うというのは、本来なら、育つ間になされることなのに
日本で育つと歪むんだよね。
その歪みを取るのに、お金を取られるんだよ。
身体を壊すぐらいの歪みになってるから。
ほんと、バカみたい。
そして、新しいしがらみと規則を身に着けてまた、人からお金を取って「あなたの自己肯定感を埋めてあげましょう」という人になる。その連鎖をとうしたら切れるんだろうね。
やりたいことをやって生きている人の「内面」「考え方」をお手本にしてみよう。
「こうしなさい」「こうしなきゃ幸せになれないよ」とわざわざ押し付ける人の言うことは聞かなくていい。
それはまた呪縛になる。
呪縛のない世界が当たり前になりますように。