言葉に力が宿る時
昨日、ダンス教室に行ったら「また、当たりましたYO!」「宝くじ、絶対買ってくださいね」と言われたみかみです。↓これ、薔薇の入浴剤。いつ使うんだお?美しすぎるので正月まで飾っておきます。
二回も抽選が当たるなんて、人生初じゃなかろうか。
年一回のえべっさんの笹の福引だってなかなか難しいというのに。
しかし、なんとなくだが。出会う場所や人もスペシャルな予感。
先週からボランティアに応募したのだけど、さっそくそこに、友人を引き込む算段をしている。意地悪な人が誰もいない空間が存在することに軽く驚いたから。
そう、、意地悪な人・・・
職場にいる、あの人たち(笑)
子どものように部下に対して拗ねまくって、無視してみたり、意地悪な言葉を吐いて気持ちをわかってもらおうとしたりしている。
もしくは、大声でその場を支配する。雑談、しかも、自分のことだけなのに、ね。
そういう時言葉には力がない。
力がないし、なんていうか、バイキンマンのようなものがバシバシ出てる。
黒くて小さな塊が飛んでる感じ。
出ているものは意地悪なんだけど。その小さな黒い塊は、全部悲しみでできている。
その悲しみを受け取っている人たちもいて
その人たちは、それでも笑顔で居続けていて
話していると暖かくなる。
上記の二人は共に管理する立場であるから、上に立つとそうなってしまうのかしらとつい不安に思うぐらいだ。
そういえば、別の派遣先でも似たようなことがあった。
上に立つ人たちの意地悪さったらなかった。どこでもたいがい、同じだったし、意地悪でないチーフの下には、超ド級の意地悪なおばさんが威張ってた。
誰もが悲しみを抱えていて、それを黒い槍を持った言葉に換えて、どうしようもなく力のない言葉を吐き続けている。
わたしは、そういう場所に身をうずめることはしたくない。
だから、あちこちに居場所を持っている。
力のある言葉を使う人を探して、自分のモチベーションにしている。
他人の悲しみに巻き込まれない術を持ってくことが、何よりも大事だと思う。
職場のあの人たちを変えてしまいたいと思うより、自分自身の在り方を正していれば、「あ~また言ってるな、今日は聞かないでおこう」と思える。
昨日も、バシッと話を切ったら、不機嫌になってあっちに行ったけど、気にならない。
だってあの人は、私のすべてではないのだから。あの人は、そういいながら、私を切ることはできない。私の仕事にどっぷり依存しているのはその人だからだ。お気の毒に。
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私は長らく「言葉乞食」であった。欲しい言葉があって、それを言ってくれないと嫌だと思っていた。
でも、運よく(外から見たらそうでもないが)溢れるほどの言葉を私に浴びせてくれる人が現れて、去って行った。
去って行かれた時は寂しくて辛くてたまらなかったが、その「言葉の貯金」は大きな威力を発揮してくれた。その人がいなくても、私の中で言葉が生き続けているのだ。
申し訳ないけれど、私に言葉をくれるためだけに、その人が私の前に来たのかもしれないとも思う。
そして、今は、言葉がなくても、言葉をもらえなくても、信頼できる人たちに安心して囲まれていられるようになった。
ある先生が「みかみさんは、これから、言葉を離れるんじゃないかな」と予言してくれたが、その通りになった。
こうしてブログは書いているけれど、あまり言葉に執着しなくなった。
私の脳は言葉に強く反応するし、活字を読んでいないと落ち着かないのは変わらない。
けれど、言葉を交わさなくても(会わなくても、メールがなくても)信頼できるというつながりができてきた。
友達もそうだし、ボランティア先の人もそうだし、職場でプレゼントをくれた女性もそうだし。
うん、「私と言葉」だけで論文書けるわ、と今思った(笑)
私の成長は言葉とともにあった。
感情の読めない両親のもとで育つと、信頼できるのは言葉だけだからな~。
やっと自分の育て直しが完了しつつあるのだろう。
私の前に現れてくれた人たち、ありがとう。