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私の話を真剣に聞いてくれる人に出会ったのは
大学生の時だった。
サークルのような活動の友達で、結婚後の愚痴もずいぶん聞いてくれて、大人な対応をしてくれた。
だけど、その頃の私はまだ子どもだった。
彼女の好意も与えてくれたものにも感謝できず、疎遠になってしまった。
今また、私を理解しようと努力してくれる友達がいる。
あの頃の過ちは繰り返したくないと心に誓っている。
大学生の時に知り合った彼女はクリスチャンで、今の友達は看護師だ。
私の突拍子もない言動や行動を、見守ってくれているのがわかる。
わたしには、心の通じない母親と夫がいた。
私のことなど眼中になく、自分がお姫様である世界に逃避したまま大人になった母と、自分と両親の軋轢の中に身を置いたまま、私や子どものことなど全く目に入らなかった夫。
彼らは彼らの世界の中で私を見ていた。
でも、それは私の「見て欲しい姿」ではなかった。
離婚してから、看護師の友達とさらに仲良くなれたり、私のことを好意的に見てくれる人が格段に増えた。
職場に行くと、まだまだ自分の世界にどっぷり浸かったままの女性や、人にわかってもらうことだけで生き延びたのであろう元校長などがいる。たまにイライラする(笑)
だけど、私には応援団がたくさんできた。
離婚しても、母と決別しても、ノンプロブレム。
会話が通じない人がいても、さらっと流せるようになった。負担が減った。
「男は言わないとわからないのよ」「夫なんて犬と同じよ」などと言いながら夫婦生活を続けている人を見かける。
信じられない。
コミュニケーションが取れない人とどうして一緒に暮らせるんだろう。
それこそ、「わたしはわたし、相手の話なんて聞かないわ」というメンタルでないと無理じゃないのか。
そっか、そういう人ならそれでいいんだよね。と思えるようにもなった。
夫と子供、どちらも「言わなくても察してもらえる」環境を創り上げた私と暮らして、コミュニケーション能力を伸ばすことなくきてしまった。
だから、離婚するしかなかったのだろう。
一般の人は、「相手に合わせろ」と言うけれど、もうこれ以上、合わせようがないよというほど、人に合わせて生きてきた私には、そのアドバイスは意味がない。
違う生物だから、というのは、子どもを育てる時には使えるけど、なんで大人同士、しかも夫とそれをやらにゃならんのだ。
我慢してでも付き合わなければならない職場の人ならともかく。
ストレスフリーになりたい家庭の中で、自分だけが「相手に合わせる苦痛」ったらない。
一人になって、そのストレスが減っただけで、生き返った気がした。
無理してたんだと思った。
そしてまた、会話がかみ合う人にも出会った。
「言わなきゃわからない」なんて嘘だ。わかる人はわかるのだ。
わかろうとしないからわからない。
観ようとしないから見えない。
わかろうとしない、見ようとしない人と、どうして一緒に暮らせようか。
世の中には多数ではなくても、会話ができて、理解できる人もいるのだ。
犬と思わなくてもいい人がいるのだ。
どうせ伝わらないからとあきらめなくていい人もいるのだ。
どうして我慢をさせようとするのか、私にはわからないよ。
明後日は楽しいダンス教室。
ダンスもね、相手を受け取らないと踊れないから、私のことを見てくれるし、違うことしてたら注意してくれる。すぐに伝わるからね。それが楽しい。
もう「言わなきゃわからない」「相手に合わせないと会話してもらえない」という世界にはいかない。わかりあえる世界に行くよ。