気持ちよく暮らす
昔の私は、軋轢を抱えることが自分の課題だと思ってた。
嫌な人に振り回されながら、「何かを学ばねば」とか思ってた。
踏ん張って踏ん張って、自分がどうしたら認められるかを必死で探ってた。
今は違う。
軋轢は手放す。やめる。
どうしたって来るときは来る。
私に必要だったのは「やめる勇気」だった。
その人との関係を切る。やめる。
友達が少ない私にとって、「私と合わなくても」「私を嫌っていても」私とつながってくれてる相手なら、「大切にしなければ」と思い込んでいた。
でも、そんなことしてたら時間が無くなる。
大切な友達すら大切にできなくなる。
人生は過ぎていく。
嫌な関係をどんどん切ってやめていったら、身軽になった。
正しさを「嫌いな人に向けて」証明しなくたって生きていける。
不平不満がある人だけが、「あの人は間違ってる」だの「こうするほうが人に愛されるよ」などと他人に言ってるだけで、私にはそれは関係なかった。
いちいち真に受けて凹んでいた自分があほらしくなった。
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昨日は朝ヨガをして、一日中おうちを片づけていた。
引っ越ししてからも常に用事が溢れていて、土日も寝るだけで終わり~とか、予定こなすだけで精いっぱいだったから、やっと家に向き合えて嬉しかった。
自分が心地いいことだけをするって最高だな。
で、結局それだけでいい。
誰も、私の人生を変わってくれないんだし!
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私も、他人とは軋轢をよく生じるほうだから、常に「なんでだよ」と思ったり罪悪感にさいなまれることが少なくない。
ただ、その時に、相手への伝え方や想いの持ち方は、自分に優しくなった気がする。
嫌なことはきちんと伝えるが、誹謗中傷しないとか
その人に言っても解決しないなら、上に言う、とか
陰でこそこそ言う前に対処しようと思うとか。
そういうこと。
そしたら、何が起きても自分では納得する。選択できるから。
嫌なことを伝えないのが優しいのではないんだよ。
誹謗中傷したり、噂にするのはあまりよろしくないだけで。
権力や自分が言ってもかなわない相手には何も言わず、自分より弱い立場の人に正論を振りかざすより、どんな相手にも伝えることが伝えられる人のほうが、私はずっと信頼できるから。
巷で言われてるクソバイスってのは、弱者をいたぶるアドバイスのことだと思う。
自分が上に見られたい、自分を認めてもらうために聴いてもらいたいっていう感じかな。
この年齢になると、教師面して教えている人がどういう人かは見わけがつくようになる。教えながら学ぶという方法はありだけど、そこには、相手を知らず知らずに傷つけてる可能性があって、やたら生徒を罵倒したり、否定したり、馬鹿にしたりしていると、いずれ自分に戻ってくるだろうとは思うけどどうかしら。
わたしは、教えるというよりは、自分の生き様を見せたい。
ここはこうやって乗り切っているよ、乗り切ってきたよって。
だって、自分しかわからないことなんて教えられないでしょ。そして、自分が実践していないことなんてもっと教えられない。
ただここにこういう人間がいた、と知ってもらうしかない。
私が尊敬できる人は、たくさん本を読んでいる。
本を読むと世界が広がる。日本に住んでいても、日本だけの価値観を正しいと思わなくて生きられる。それが少し辛いことでも。
世界を知れば、決めつけることの愚かさも自然にわかる。
だから、成功哲学じゃなく、児童文学を読んでほしいと思う。
子どもの目から見た、世界の歪みが見える。
子どもに関わる人が、子どもの目線で見る世界を知らないなんてって思うしね。親もね。
今日は友達と会う。一人の時間も誰かとの時間も同じぐらい大切。
あ、ひとつだけ。誰かのブログで「ときめきを保つ方法」っていうタイトルを見た(だけ)けど。ときめきがなくなれば、そのままにしていいじゃんって思った(笑)ときめかないのに無理に保たなくてもいいよ~~~。「ときめかなくなった」で終わりだよ。
そのほうが自然だから!(何のために持続させたいんだ?WWW)