証明しなくていいもの
自分自身であることを選ぶ。
そう決めた後に、批判される。
さあ、どうする?
わたしは、そんなに認められたいのか?否、そうじゃない。
「認められたいと思ってるんだろう」という批判の声が自分自身から聞こえる。
そっか、これが自己否定の声。
嫌なことを嫌だと言うこと。
おかしいことをおかしいと言うこと。
私が行ってきたこれらのことは、間違っていなかった。
ただし、言った後で自己否定をしていたことについて、大いに反省をした。
伝えればそれでいい。
その後に、その人たちが何をどう考えるかは知らない。
そして、彼らのことを私が愛さなければならないなんてこともない。
許す必要もない。
伝えた後は、美味しいご飯を食べに帰るだけ。
自分が好きなこと、好きでないこと、思うこと、信じていること
それらを否定せずにいればいい。
他人と軋轢を生じたことを、すべて自分のせいにする必要はなかった。
ただ、考え方が違うだけ。話が通じないだけ。
理解してもらおうとか、わかってほしいとか、そういうんじゃなくて。
この人に、この話をしたらどういう反応が起きるだろうというお試し。
わかるかな?
日本人は、伝えずに済まそうとする。言わずに「わかってもらえなくていい」と拗ねる。そういうことが、私にはできない。
「わかってもらえなくていい」と拗ねることを、優しいとか、物分かりがいいとか、人が好いとか思ってない?
相手の考えを知るためには、「わたしはこう思ってるんですよね」と伝えなければ始まらない。相手の考えが自分と違うことを知るのが怖くて、聞かない、言わない、見ない・・・それを「相手のためを思ってる」「私は相手を批判しないから」って言い訳してない?
相手を知るために投げるボールは、変化球になるかもしれないし、デッドボールになってしまう時もある。そこが難しいけど。
私は勘違いをしていた。相手を知りたいという気持ちでぶつかっていったのを、「認めてほしいからなんじゃないの?」って自分自身で思い込んでた。
相手を知ることで、こちらの行動は選べる。相手のことを想像するだけだと、こちらの行動は勝手に制限されるでしょ。
今までのことを思い返すととても面白い。
みな、私に対して素の自分をカミングアウトしてくれてた。
一番醜い部分を晒してくれた。
めっちゃ怒ってきたり、意味不明の言いがかりをつけてきたり。
まさに「ありのままの!」だった。
私の前でいいカッコしようとする人はいないんだな。
「わたしに」わかってもらおうとして訴えてくる人たち。
いちいち、相手にしてあげようとして、必死になってた。
相手の訴えを自分の責任にしてしまっていた。
びっくり。(@_@)
さあ、わたしはどうしようか。
食べて、笑って、踊ってたら幸せなんだけどね♪