紙一重
スタバの食べ物で美味しいと思ったことがなかったけれど
今日食べた「マロンのパウンドケーキ」は感動した。
仕事のない日は、ひとりで過ごすことが多いため
下手をするとネガティブな感情にまみれてしまうこともある。
けれど、スタバのスイーツが美味しかったり、
部屋のお片付けができ、夜に気持ちよく眠れると思うと
今日の自分が誇らしく思える。
パワハラを受けた時、昨日「解決しない」と書いたけれど
基本的に私は全部相手に戻すことにしている。
「これこれこういうことがあって、私は不快になりました」ということは
攻撃的にならずとも伝えられる。
それに対して、相手が勝手に怒ってきても知らない。
我慢は絶対にしないし、復讐もしない。
でも、嫌だった気持ちは伝えるし、自分なりにいい環境に変えていく努力は惜しまない。次に続く人のためにもね。
一方、元夫に対して、子どもに対して、「どうにかいしてやりたい」と思うのは、やはりそこに愛情があるからだろうと私は思ってる。
職場で頑張りすぎた時にも、私にはその職場や同僚を愛していたからこそ、必死になったということも自分でわかっている。
だけど、愛情(と勘違いしている情熱)と暴力は紙一重だから。
相手が仕掛けてきたことは、相手に戻すだけにして
自分は自分のやるべきことに向かうのがいいのだろうと今の私は思う。
どうしてそう思えるようになったかというと
自分の負の感情を認めることができたからだ。
怒ってる自分を否定しない、悲しんでいることも否定しない。
だから、その感情に一度は浸っても、「抜けよっかな~」という気分になれるんだ。
もしこれを否定していれば、いつまでたっても怒りは去ってくれない。
相手を許す「いい自分」になりたくて、怒りを否定して、でも、ずっと心の中で怒っていることになるだろう。
わたしは、相手を許さないし、許すつもりもない。
だけど、私生活を充実させることは別問題なので、その時にまで怒りを持ち越したくないと思うのだ。
許さないでいいって思ってるし、怒ってていいって思ってると、自分がそのままでいられる。
自分の喜びに目を向けることを「意識して」「頑張って」やるんだ。
自分を楽しませる方向に必死になるんだ。
それは、怒ることや、社会を変えようと思ってることと同時にできると私は思ってる。
怒ってる人や、社会を変えようとしている人を嘲笑したり、冷笑する人が多いけど。
自分が今生きていられることは、過去に社会を変えてくれた人がいるからだと思ってるから、そういう態度を受け入れられないし、私も少しでも子どもたちに、生きやすい社会を残していきたいというのは当然だろうという気持ちで生きている。
他人の困難を解決してやろうと待ち構える人にはなりたくないが
私自身が乗り越える姿を見せられたら、それが私の生きた証である。
まだまだ経験していないことがある。
他人の生き方を見て学んでいる場合ではない。自分で感じるんだよ。自分でやるんだよ。評論家になるより、実践家になるんだ。
そしたら、愛と暴力を間違える暇もなくなる。
LINEliveで中継を見ていた。
有名になったコブクロが、20周年にこんなストリートライブをするなんて誰が予想できただろう。休止を発表した時に、この日が来るなんて誰が思い描いたろう。
人生とはそういうことの繰り返しだからこそ、生きていることが楽しいのだ。
コブクロが大阪に来てるというだけで、心が躍るし、嬉しくなる。
大好きな人は、多ければ多いほど人生は楽しくなるね。
そして、いつか別れてしまっても、楽しかった思い出はなくならない。
最期に持つことができるのは、そういう思い出だけなのかもしれないから、私は、どこまでも大好きを探しに行くよ。