人生何が正解なのか
今日も暑かった。
バイクで飛ばしたら腕が焼けてひりひりした。
昨日、ブログを書いたのだが、勢い余って言葉が過ぎたと思い、下書きにしてしまった。ここ最近は、自分のことを書いていたけれど、息子たちに何かあると、どうしても不登校関係の話題に触れなくてはならず、言葉選びが難しくなる。
今日も少し伝えづらいことを書こうと思う。
私の頭の中には、様々なジャンルの知識が入っている。
常識とはこういうものだとか、理想とはこういうものだとか。
けれど、人生というものに正解はない。
誰もが自分なりの正解を持っているけれど、それを他人に当てはめることはできない。
私のふわっと思う今の日本には、常識派と理想派が存在する。
日本の制度を当たり前と思い、学校は行くもの、家族は仲良くするもの、社会人になったら上手にふるまうもの・・・等の考え方をしてるのが常識派。
それに対して、学校へ行かなくてもいいんじゃない?みんな違ってみんないい、差別はよくない。自由が素晴らしいと言ってる理想派がある。
で、自分はどちらかで決めていて、その通りに人生を歩もうとしている。
子どもが不登校になった時、慌てて常識派から理想派に自分を変えようとして、しんどくなる親御さんがいたりする。
でもね~どっちかにする必要あるんかな?と私は思う。
どちらにも「自分」がない。常識や理想という「外側」に自分を合わせようとしている。だから、揺れる。
人生って外側に合わせていれば幸せになれるなんてものではない。
よく親が言ってた。「とりあえず勉強しとき。いらなくなったら使わなかったらええねん。」と。それはある意味、逃げの理想論だ。
自分は自由を尊重する立派な親だけど、子どもが勉強を全くしないことを認めるほど強くない。だから、一応勉強はさせたというていにしておきたい。そして、それで責任は果たしたのだから、あとは自由になさい、という・・・。
この逃げのロジックを使っている大人が山のようにいる。
常識に縛られてない「素敵な大人ですよ」と言わなければならない「何か」があるのだろう。ええのにね、子供に勉強させたいって正直に言うたら~と私は思う。
そして、そうやってごまかさないと、「あの人はなんや言うて子どもを自分の思い通りにさせたいんちゃうの」という嫌味を言われかねないという不安がある。「子どものことを第一に考えていて、エゴじゃない子育てしています」という風を装わないと辛い世界がそこにある。
先日、私がさんざん責められたのもそこである。自身が自由な生き方を目指している人で、いわゆる理想で子育てができると信じているタイプのおっちゃんと話をした。そういう人には、常識派の話は一切通じない。おっちゃんの理想に添わない育児をしている人はけちょんけちょんに論破される仕組みになっている。
あなたが間違っている、の一点張りで。でもそれって、常識派の言い分を真逆にしただけだよね。
さてここで。
不思議な話をしよう。
私は、まあ、とんでもないことをした。
収入の低い息子に「家を出て行ってくれないか」と提案したのだ。
そして、息子はしぶしぶそれを受け入れて、出て行った。
親として、常識派からも理想派からも受け入れてもらえないようなやり方だったと思う。だから、誰にも「これでいい?」とは聞かなかった。
ただ私の直感が「そうしろ」と言ってた。それだけだった。
理由はいくらでもあるし、責められる理由もそれ以上にあるだろう。
だけど、どうしてそうなったのかは、誰にも分らないし、誰にも止められなかったと私は思った。
そして、地震が起きた。
間違った子育てをしたのではないかと悩んでいた私が吹っ飛んだのはその瞬間だった。
出て行った息子の部屋はめちゃくちゃになっていたのだった。
「息子が残ってたら、間違いなく無事で済まなかっただろう」ということだけがわかった。
今回の地震は、マンションの低層階は比較的被害が少なかった。
息子が出て行った先は、低いマンションである。
救われた~と思った時、鳥肌が立った。
このために引っ越しさせたんじゃないか?と。
もしかしたら、家に残っていても無事だったかもしれない。それはわからない。
だけど。間違いなく引っ越しだことは正解だった。
それが育児として間違っていたとしても、子どもの命は救われた。
これをどう思われるだろうか。
こういうことってよくあることだと私は思っている。
その時に「なんでそんなことをするんだ!」と責められても、後から思えば、それで子どもが助かったのかもしれないということが。
常識も理想も、そこには介在しない。運命というか、なんというか。そういうものしか残らない。
人生に正解はない。誰にとっても。
今日、あるフリースクールのシンポジウムに参加した。
「不登校になってよかった」と生徒たちは発言していた。
これを理想派の人たちは利用しようとするだろうけれど、
ちょっと待ってほしいと思った。
常識派の人たちが不登校を恐れるのも変だし、だからって、不登校そのものを「正解にしてしまう」のも違うと思った。
うちの子が不登校になった時、色んな人が色んなことを言ってきた。
「山村留学がいいよ」「こんな人がいるよ」「こんな場所があるよ」「こうしたら」「ああしたら」と。
結局、そうではない不登校を息子は選んだ。そこに正解はなかった。
地震が起こらなければどうなっていたかと考えても仕方がない。
起きたのだ。現実として。
「子どもがかわいそう」と私は責められたし、それぐらいのことは予想された。
私はずいぶん凹んで傷ついた。
でも、息子の命は救われた。傷つく必要はなかった。
人生とは、そういうものだと思う。
外野はなんとでも言う。言える。そして、何もしない。
影響を与え合うような関係性があるから、間違っていると思われようが動くのだ。
何が正解かなんてわからないままに。
自分の行動が誰かを傷つけるのでは?と思うことが、行動を躊躇わせる。
人の行動を止めてしまうのは「そんなことしたらかわいそうじゃない」の一言だ。
人は無責任にアドバイスだけして去っていく。だから、どんな時も自分を信じるしかないし、信じて失敗しても、それを潔く引き受けていればいい。
ええかっこしいは見抜かれるよ。
伝わる人にだけ伝わればいいな。
明日も暑さに要注意!