君になれ!自分になれ!
コブクロの曲のタイトルをパクッてる?って思ったあなたとつながりたい(笑)
誰もが夢に描いている「ほんとの自分」
それは自分の想像を超えているもの。
だから、ちっぽけな夢や希望の中に「自分のかけら」を集めようとするけれど
どれも自分じゃないんだな。
子どもの夢を応援できない大人は
自分の夢を知らない。
子どもの夢というものが、「本に出てくるようなエピソードじゃないと許せない」親は、自分が主人公になりたかったんだろう。
私は自分をまだ知らない。
だけど、ずっとずっと「このままではいけない」と思い続けてきた。
居心地の悪い場所で暮らすことや、不快感を自分の中に感じることや、トラウマぽいものを抱えている自分から抜け出したいと思ってきた。
わたしはいわゆる「行動が遅い」子どもだった。
身体が重く感じられて、動かすのがしんどくて。
ただ座っているだけで色んなことを感じていたから、世界は美しいと思っていたから、何一つ退屈しなかったけれど、いちいち動かなければならないのは苦痛だった。
そんな私が、大人になって、共働きをして、身体や心を壊すまでバタバタと動いたのは、新しい能力を自分に発掘させるためだったに違いない。
無理やりにでも、家事や仕事を習得し、人間関係を広げなければならなかった。
「わたしはこういう人だから」と、何もせずに生きることはできなかった。
「夫に何もかもしてもらいたい」「仕事したくない」という声をよく聴くようになり、「それが本当の自分だから」という理由付けをしている人って、どこで成長するんだろう、どうしてそのままで生きていられるのだと不思議に思った。
子どもの不登校から15年。
日々、現実との戦いと、自分の心が安定するためなら何でもやってきた。
それでも、私の中にある何かが「これからが人生だ」と告げている。
子どもの前で凹むわけにはいかなかったし、乳幼児がいながら、自分の過去を振り返って感情を昇華する作業などとてもできなかった。
だから、本当に自分と向き合う作業はこれからなのだと思う。
あんなにしんどかったのに、もう二度と戻りたくない日々を過ごしたのに、まだやるの?いつまで続くの?と、ここ数日の私は落ち込んでいた。
もういいよ、自分と向き合わなくたって平凡で幸せな人たちはたくさんいる。文句を言いながら、人に頼りながら、ちっともかわいそうじゃないのに「かわいそうな私」に浸って生きていく人生だってある。
どうして私はこんな思いをしているんだろうと。
でもこれが、どうしようもなく「わたし」なのだと気づいたら
言い訳なんてできなくなる。
誰かと比べている暇もなく、「わたし」を生きるしかない。
私のことを失敗した人生だと思う人もいるだろう。
何やってるんだと呆れる人だっているだろう。
たとえそう見られたとしても、私は、他人から賛美されるために生きてるんじゃない。
夫や子どもや財産というオプションで自分をアゲアゲにしても、死ぬ時はそんなもの関係ない。日々の愚痴を聞いてくれる人を横に据えても、その人が永遠に自分のゴミ箱になってくれるはずもない。
そこにある「輝きらしきもの」は一瞬で消えるのだ。
家族や能力や財産というものを取り払ってもなお、輝ける自分でいられるか。
何か(恋やお金や子どもの出来)をゲットすることは、おまけであって必要なものではないのかもしれない。
想えば、私が親からの愛情不足を嘆いていた時も、私は愛情があれば豊かになれると思ったわけではなかった。ただただ自分を満たして、幸せな感覚を味わいたいだけだった。
愛情不足というのは、「誰かが横にいつもいないと寂しい病」である。私はひとりになりたかった。誰かがいないと満たされないような自分は嫌だと思った。
そこが、「引き寄せで恋人が欲しい」と願う人たちとは違う視点なのだと思う。
ひとりで歩く力をください。が私の祈り。
「これ以上、他人を巻き込む生き方は嫌だ、他人に頼らなければならない人生は嫌だ、ひとりで生きていける強さが欲しい」
自分を保護するものを周りに置くために色々やってるわけじゃない。
何もなくても生きていける自分になりたい。
何を感じてもいいし、何に感動してもいいし、誰を愛してもいい。
自分になればいい。
自分へのエール。