風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

自己肯定感て結局なんだよな話

今日はお盆休み最終日プラスワン。

 

美術館に行く予定なのにパソコンに向かってる。

吐き出さなきゃ死んでしまうで~~~な私です。

 

Twitterで「弱者は努力しなくていいよな」という考え方について、それはいかがなものかと書かれておりました。

たしかにそうですが、その考えに至ってしまう心境を私は知っている。

ということについて、書こうと思ったのでした。

 

わたしはとても繊細なところがあって、他人の気持ちをいらんとこまで読んでしまうんですが(鈍感な部分もありつつ)

私の成育歴を覆っていたのは「他人からの嫉妬をいかにかわすか」でした。

 

幼稚園の時に、たまたまその幼稚園が公文塾を始めて、親はこれ幸いとそこに私を突っ込みました。それが良かったのか悪かったのか、小学校に入るころには、すでに国語と算数は得意中の得意になっていました。

それについては、何度も何度も振り返り、あの公文教室がなければ、わたしはどれだけ普通の人でいられただろうかと後悔しました。(今はしてません)

 

日本の怖いところは、少しでもいいところがあると、全力で引きずり降ろそうとするところ。先生に気に入られてるとか、テストの点が良くてクラスで褒められたとか、そうなるともう、「どこにこいつの欠点があるか」を必死で探されてしまう。

 

だから、点数を取り続けないと、欠点を探されるだけの人生に負けそうになるんです。

 

「頭がいいことしか取り柄がないよな、お前は」というムードにやられてしまう。

 

わたしはそうでした。

 

運動ができなくて、美術でもぼろかすに言われて、先生からも「頭がいいだけの人には芸術系は理解できないよね、あなたはその典型よね」的な嫌われ方をした記憶もあります。

 

いつも、何もしてないのにとても居心地の悪い場所で生きていました。

 

そもそも、私はとても不器用です。鋏の使い方も、お箸の使い方も人並みにできるようになったのは小学校高学年になって、自分の身体が自分にフィットしたと感じた時でした。それまでは、身体が自分のものではないような感覚で生きていました。

 

勉強はとても簡単だったし、努力しただけ成果が出るので楽しかったのは、その身体能力の低さと比べていたからだと思います。

 

だから、いつも気が抜けなかった。

頭脳だけで評価されてるわたしは、それがなくなったら生きている価値などないんだろうなと思っていたからです。

 

どうすればいいのか。大人の期待する「頭のいい人間」をやればいいのか。

学級委員をやってみたり、頼まれたことは何でもやって、自分をこの世界に存在させようとしました。

 

大人も子供も、よくわからないけど、他人に嫉妬してばかり。

相手のいいところを見出すよりも、欠点を探してあげつらうために生きてる。

私にはそう感じていました。

 

必死で私の粗を探そうとしてる。見つかったらおしまいだ!という悲壮な世界です。

 

だからこそ、障害を持っていて、明らかに「もう無理です」を体現している人がうらやましいと思ったことは事実です。

小学生の頃から、自分は白旗をあげたくて仕方がなかったからです。

もう無理だ、やめたい・・と。

だけど、優等生を止めた後の世界がどれほど地獄なんだろうと思うとやめられないんですね。

 

そしてそれが、昨日書いたような「苦手な育児をがんばっちゃう」ところに行ったわけです。

 

 

とにかく「誰からも何も言われたくない」一心ですよ。

隠れて悪いことしたい。目立ちたくない。そっとしておいてほしい。

どうせ目立つなら容姿で目立ちたい、容姿で嫉妬されたいのに、って。

 

田舎の農村で認められるのは、ヤンキーでかわいくて、男の世話ができる女子。

決して頭が良くて、リーダーシップが取れて、男を手下にできるかわいくない女の子じゃない。

そんなのは男の敵で、下手するといじめられる案件。父親からも「女らしくない、結婚できない」と何度言われたことか。

結婚するしかないでしょ。子ども産むしかないでしょ。苦手でも頑張るしかないでしょ(笑)

 

そういうわけで、とにかく私は、完ぺきな結婚をやってみせることが目的になり、そのために突っ走った半生だったというわけです。

 

嫉妬にまみれたこの世界の片隅で。(いや、嫉妬の半分は母親からだったけどな)

わたしは、嫉妬にまみれておりました。

誰もがうらやましかった。普通に生きられる人たちすべてに嫉妬していたのです。

 

親と遺産で揉めて離れることになり

離婚をし、息子たちを手放して

わたしはやっと一人前になりました。

 

人並みに馬鹿なことをやって、安心したのです。

 

親孝行しないことをとやかく言う人もいるし、離婚したらしたで「パートナーシップが築けない未熟な人」と言われるし。でもそんなこと、どうでもいいくらいの解放感と自信が生まれたのは事実です。

 

自分の人生を自分の足で歩けるようになったから。

 

エリートと言われる人たちの内面を私は知っています。

揚げ足を取ろうとする周囲から身を守って固くなってる。

ほころびを少しでも見せたら、人格攻撃が始まることがわかってるから。

「ほら、頭のいい人なんてそんなもんよ」と。

それは、エリートの問題ではなくて、学校教育で優劣を勝手につけられて、誰もが自分の良さを認められずに生きてきたからです。

 

完璧を求めらる環境にいると、「努力しないで生きてるように見える人たち」がうらやましくなる。それがたとえ錯覚であろうと。

 

仕事中にお茶飲むな、コンビに寄るな、とか言われる時代です。

子どもが不登校だというだけで、どれだけ地域から排除されるか、親族から軽蔑されるか。子どもを殺してしまった親の切羽詰まった感じ。周囲の圧力。

 

そういう視線を浴びながら、どうやって自己肯定感を持てというのだろうと。

 

わたしはようやく、何もできなかった頃の自分を取り戻せそうです。

ちょっとイカれた部分(キレやすかったりね)もすべてを肯定して。

 

周囲から「こう思われるだろう」というのは、錯覚であるし、自分が自分に浴びせているものではあるけれど、そんなに簡単に気づけない。当たり前です。

他人は他人のことがよく見えるから、さも簡単にできるかのように言うし、できない人をまた、責めるようなことをすぐに言う。

そうやって他人にお説教かます自分を鏡で見ろや!って話ですよ。

 

長くなりましたが、欠点を探すより、どんな能力にも敬意を表したいと思う。

才能は素晴らしくても、人間的にダメな人はダメですけれど、それは、頭がいい人だけじゃなくて、アーティストにも霊能者にもいます。能力と人間性は別。それでいいじゃないですか。

 

そこに完璧を求める(本人も含めて・・・私には才能あるから人格もあると勝手に信じてる人もいるから)のはやめたいね。

 

無難な人でいることはとても大変。

他人を黙らせたいのなら、「変わった人」を貫くしかないと気づいたところです。

男はいいよなあ、簡単に「変わった人」で生きてけて~(やっぱりうらやま~)。

 

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決別

山道を赤いパートナーと一緒に走るのは気持ちがいい。

「ひとりでドライブする」と言うと

意外そうな顔をされたり、「嘘だろ」と言われたりするけれど

一人ドライブが好きだ。

 

一人ドライブのきっかけをくれたのは

息子たちの不登校

自分の家なのに全くプライベートな場所がなくて

子どもは24時間家にいるし

車が唯一の部屋代わりだった。

 

どんな時も車の中で泣いたものだった。

 

今日もちょっと泣いた。

 

それは、過去との決別の涙だった。

誰が何をしたからというものではなかった。

「愛されたかった自分」「まともにふるまいたかった自分」との別れだった。

 

「美雨のお告げ」に行ってきた。

 

こういうことを書くのも、実は、ちょっと気になってしまう。

またかよ!っていう突っ込みを恐れている。

「依存しすぎじゃね?」という世間の声をまだ、私は拾っている。

自分を生きていないのだと思う。

 

けれど、自分がこの地球の中の日本という、あまりにも生きづらい国で、どうしたらいいのかを聴けるのは、いわゆる不思議な人たちになるのは、世間とうまくやってる人たちに相談しても答えは得られない気がするからだ。

 

5月からの不調に悩んでいる。という話をした。

そこから発展した話は、今の私でなければ受け止められなかったであろう意外なものであった。

 

不思議なことに、しゃべり始める前から涙腺が緩み始めていた。

意味が分からず、涙なんて出てないふりをしようとしたが、無理だった。

 

私がいかに、無理して子育てをしていたか、という話になった。

気付いてはいたけれど、認めたくないことだった。

私が今まで生きてきた世界では、子育てが下手だと、常に怒られ、説教され、あーだこーだ言われることしかなかったから、必死で自分の子育てを肯定するように持っていくのが常だった。そのエネルギーは、自分をどんどん削っていった。

 

どんな霊能者だろうが、不思議な能力を持っている人だろうが

私の子育てについては、あれこれ言いたがった。

それほどに、不器用で見ていられなかったんだろうと思うけれど、でも、それほど責められることだろうかといつも悲しくなっていた。

 

今日言われたことは「どうしてあなた、家を出なかったの?」だった。

子どもを誰かに託せばよかったのよ、と。

 

私が一人ドライブをするようになったきっかけを

もっと広げて、そのままドライブしてどこかに行ってしまえば良かったのだ、という話だ。

子どもと離れることに罪の意識があった。子どもと離れることに抵抗はなかった。

ただ、「かわいそう」と言われることが怖かった。

そして、子育てもできない女、と思われることが嫌だった。

私が執着していたのは、私が母親として失格だと思われることだった。

 

上の息子を家から追い出したことも、ある種の人たちには信じられないことだろうし、私があまりにもあっけらかんと話すものだから、誰も何も言わなくなったが、私の心の中にちくっとする部分がないと言えばうそになる。

 

まあ、今となれば、私の30年が無駄だったとは思わないし、その自信はそれなりにある。息子たちには申し訳ないが、私自身もこういう生き方しかできなかった。

その上で「家を出ればよかったのに」の言葉は、私を根底から安心させた。

 

泣きながら、爆笑に次ぐ爆笑(だって「何やってんの」って言われたんだものw)でお告げの時間が終わったのだけれど

帰り道では涙が止まらなくなっていた。

 

それは「無理してまで家族の形を作りたかった」「親兄弟に”お姉ちゃんでも子育てできるんだ”って認めさせたかった」「親に愛されたかった」という自分が見えたからだった。

バカにされたくない、という一心で生きてきた。

「ちょっと頭がいいからって」と、私が不器用なことをからかう兄弟たちが嫌いだった。

 

私の育児を馬鹿にして頭ごなしに説教垂れる(愛が足りないとか、あなたがそんなんだから子どもがかわいそうとか)人たちを見返したかった。

今なら言える。わたし、子どもが苦手なんで。異星人なんで。子育て苦手なんで。

 

もうええんやなあ、頑張らんでも・・・。

 

素直にそう思えた。それはまた、頑張ってきた過去との決別でもあった。

 

子ども達を楽々とコントロールできる人たちがいる。

私にはとても無理だった。

そういう人間なんだった。

 

そして、「20tのおもりが載っててしんどかったやん?でもそれが今は10tに減った。楽に思うかもしれんけど、まだ10tも載ってるねんで!」って言われて、もう笑い転げるしかなかった私です。

 

おもりがなくなった自分がまだ見えないけれど

おもりをなくすことは決めた。

 

子育てを自慢する人たちが嫌いだったよ。

作家でも「ほっておいたら育ちました」とか言ってて

母親としての自慢てなんやねんて思ってた。

もう、そういう世界からも離れていきたい。っていか、何も感じないようになるんだろうな。

 

子どもは可愛いし、子どもに癒されたり、育てられたりすることは事実だ。

私も子どもから愛をもらった。

けど、自分の不器用さをカバーする術を知らなかった。

バカにされるのは実家でうんざりしていたから、二度と同じ目に遭いたくないと誓ったから。

 

今は、自分の馬鹿っぷりをそのまま見せられる人と場所があって

少しずつ自分の殻を破りつつある。

だからこそ、お告げに行けたのだと思う。

 

月夜の祈り

 

 

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満月の次の日に。

 

世界が変わる。

幸せの定義

幸せ~ってなんだ~っけ♪という歌が流行したことがある。

ポン酢しょうゆだけじゃないけどさ(笑)

 

ある文章を見て、朝から考えさせられた。

 

「今ある幸せを見逃してませんか?」と。

 

うん、わかる。そういう幸せもわかる。

今の私がどれだけ幸せかもわかってる。

こうして、休みを取っていられるのも、朝ゆっくり起きて大丈夫なのも。

綺麗な部屋に住んでいることも。

 

ただ、それだけを味わってたら人生停滞する気がしない?わたしだけ?

 

気付いたことというのは

私の幸せというものは、この地球に生まれた価値観を味わうことにあるってこと。

それは、おそらく宗教の言う「足るを知る」の真逆を行ってる。

もっともっとやってみたい、味わいたい、を追求している。

恋人欲しいなあと呟いた時も(地震でメンタルずたずたな時ね、そりゃ欲しいでしょ、そういう時は)「あなたは今ある幸せに気づいてない」と説教した人がいた。

そうじゃないって~(-_-;)

 

正論、幸せとは何か、みたいなことに話を持ってく人はそう言うんだよな・・・。

 

わたしはたぶん、子どもみたいな、孫悟空みたいな気持ちがいっぱいなので

「したいことがまだまだあるんだよ~~~」って叫んでる。

お釈迦様の掌の上で叫んでいたとしても、その活力こそが幸せの源なのだ。

だれがそれを不幸と言おうと。

 

恋がしたいのに動けない。行きたいところがあるのに体がついてかない。

それって私には悲しいことなんだ。

何もしたくない、動きたくない、って人なら、今の環境は最高かもしれないケド。

 

わたしにとって「足りないことを見つける」ことが幸せで

発火装置が作動することが幸せで

動いてる自分が好き。

 

それを理解してくれる人が・・・欲しい・・・んだろうなあ・・・。

 

私にとってすべての恋(芸能人であっても美術品であっても)が大事なのは、恋が心を燃やせるものだと知ってるからなんだろう。

 

わたしは隣と比べない。隣の不幸は知らない。幸せはよく見える。そのどこが悪いのかわからない。

自分のやりたいことと幸せを求めていくだけなのだと思う。

遊び尽したいじゃない?この世の幸せと言われていることも経験して。

その分、酷いことも経験するけど。

 

誰かの幸せを羨んでいるわけじゃないし、世間的な幸せに自分を合わせてるんでもない。「そういう幸せってどんな感じ?」をやってみたい。

そのために、私を煽ってくれるものなら何でもOK。

 

わかるかなあ、わかんないだろうな・・・。

 

これが孤独ってやつですね。うむ。

 

空回りしようが、成果がついてこなかろうが、その時その時の自分の行動が面白くて好きだったらいいんだよ。

「成果が出ないのは、あなたが幸せを見逃してるからだよ、空回りしてるよ」と人から嫌味を言われたってかまわない。ってことだ。

 

なんだ、そんなことだった、って話だ。

 

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トラウマというもの

雨が降っている。

台風の影響はほとんどなく、しかし、どこかの街で看板が倒れているのを見ると、去年のことを思い出して胸が痛くなる。

大変なのは台風が過ぎた後だ。

台風の間だけはテレビは被害を映すけれど、壊れたものを直さなければならないことのほうがずっと困難なのだから。

 

一日、寝たり起きたりして過ごした。

低気圧のせいなのか、風邪をひいたのかわからない。

こうしてゆっくりできることは幸せなのかもしれない。

 

ちょっと前に、Twitterで話題になっていた鯖缶で作ったカレーが冷凍庫にあった。

レシピ通りに作ると少し塩辛すぎて残ってしまったのだ。

今日はそこに、ニンジンジュースとマンゴーエキスを加えて味を変えてみた。

とてもまろやかになり、息子はお代わりをした。

 

料理の技を磨くことは、自分を救うと思う。

 

*************

 

わたしはかつて、自分に自信がなかった。

自分の考えというものが、世間に受け入れられないと固く信じていた。

今となっては信じられないけれど。

 

今はなんとなく、その理由がわかるのだ。

私と「合わない」人たちが、トラウマと戦っていたからだ。

トラウマを克服するために、必死でマウンティングをする。

男であれ女であれ、同じだった。

 

ある男性が維新を推す理由は橋下徹の、成育歴にぐっとくるからと言う。

(男性ってマジで感情的だからね。理論でもなく、ただ感動しただけで政党選ぶからなあ。びっくりするよね。)

その人も複雑な生い立ちを抱えていた。

 

キツイことを言うのもわかるらしい。「仕方がないよ、あんな風に育ったら」と彼は言った。

 

政治を任せる理由がそこ?と驚くほかなかったのだけれど

だからって、私は彼の話を聞いて「そうなの?私も維新応援する!はーと!」なんていう気持ちには一切ならない。トラウマ怖いなあと思った。

 

集団という家族を作り、ムラを作り、自分の気に入らない人たちは、自分がやられたのと同じようにやっつけようとする。自分たちに従わないものを粛正しようとするのは、昔自分が迫害されたからであろう。

 

結局、きちんとカウンセリングを受けず、自分の闇と向き合ったつもりになって、他人を貶めることしかできなくなる人がたくさんいる。

自分が不思議な力に目覚めたという理由で(いい学校に行って選挙に出て、選ばれたというのと同じだね)特別意識の虜になり、自分のやってることを正義とする。

 

「日本が日本が」と言ってる人たちに共通するのは

どこかで自分が迫害されてきた、と思い込んている様子が見られることである。

 

「日本を変える」と言うけれど、日本の闇(加害性)と向き合わずに何が変えれるというのだろう。

「いつまでも被害者意識でいるのは間違いだ!」と叫ぶ人ほど、被害者意識に囚われていて、自分のやってることに向き合えていないのではないだろうか。

 

相手が被害者意識に囚われているのを見ると、自分を観るようで不愉快なんだろう。

 

過去の戦争も、自分の過去も、辛すぎて見れなくなっていて

他人にその影を見るだけで脅えて攻撃する。

自己責任論ってそういうもんじゃないのかな。

 

自分で自分を愛するのも大切だ。

けれど、もっともっと「大変だったよね」とお互いに慰めあって、傷を癒す必要があるのではないだろうかと思う今日この頃だ。

 

「あなたの傷はこうでこうで、こういう方法で治しなさい」と誰かに説教垂れることで自分を癒すのではなくて、お互いにハグしたほうがいいんじゃないのか。

 

そしたら、他人の傷を解説して喜んだり、荒っぽい人を支持して自分の代わりに弱者をいたぶるのを見て喜ぶとか、そういうの、なくなっていくんじゃないかな。

 

わからないけど。

 

多くの人が満身創痍に見える、わたしには。

頭のいい人を支配したい(学歴で差別された人)、お金持ちを攻撃したい(貧しくて差別された人)、お金と地位で周囲をコントロールしたい(精神的に攻撃された人)等々。それが優しさと愛につながらずに、コントロールする方向なのがわたしは寂しい。

 

コンプレックスとトラウマの克服は、スピの人たちも全然できてない。

還って選民意識こじらせてる気がする。

 

ひとつ言う。わたし、自力で精神科の薬やめたのね。(危険なので真似しないでください)真似できないけどたぶん。今は睡眠薬も何も使わない日々だよ。

なんで、薬が手放せない人に、生き方教えられなきゃならなかったんだろうか。。。

わたし、ずっと素面で自分と向き合ってきた。アルコールでごまかすこともしてない。

 

謎すぎ。

 

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満月で台風で敗戦の日

 

ぼろぼろになったことを認めよう。

楽しい一人時間

いつの間にか、一人時間を楽しめるようになった。

実はこれが怖かったのだ。

昔は。

 

「ひとりかわいそう」の内なる声が邪魔をした。

 

自分より誰かを大事にするのが当然だと思っていて

そのおかげで私を好いてくれる人もいたわけだが

それはあまりにもキツイお付き合いだったと思う。

 

結婚も含めて。

 

私にとって、自分を愛することとは、他人を優先することと同意だったので

他人を優先しない「自分を愛する」イメージなどどこにもなかった。

 

笑顔で、気の利く女性であれ、家事ができる女性であれ。

「素敵な使用人になって、素敵なご主人に仕えましょうね」と言わんばかりの「世間の声」にどっぷり浸かっていて、そこから外れる自分がとても嫌いだったんだろう。

 

誰かの家政婦をしていれば、くいっぱぐれることも寂しくなることもない。

だけど、家政婦として愛されたくはないんだな、わたしは。

 

好きな時に好きなことをして、好きな人と好きな時に会っていたい。

誰にも理解されず許されずわかってもらえない人生もまた、面白いのではないか。

 

私にとって人生とは物語を生きることであり

身体で感じるものを受け止めながら、満喫することこそが醍醐味だと思っている。

けれど、一方で、何かを学び、頭の中をいっぱいにしてその知識の中で

生きようとしている人もいる。

言葉にできないことを大事にするわたしは、言葉で人生を説明する人に勝てない。

だけど、私の中にある感覚は決して壊れないし、積み重なっていく。

 

いつか、この「言葉にならないもの」をお互いに通信しあいながら

生きていける人と出会えることを望んでいる。

 

枠をぶっ壊して人と出会い、別れることを繰り返しているうちに

わたしは自分自身を知ることができた。

これからも、たくさんの自分に出会うと思う。

どこまでも飛んでいくために、自分を大切に扱う。

 

もうすでに、台風の影響があちこちで出ているらしい。

気を付けて。

 

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かわいそうを抜けていく時

一人遠足、奈良。

 

行く前のどろどろした気持ちはなくなって

すっきりさっぱりして帰ってきました。

自然の中を歩くのはよきことのようです。

 

観光客でいっぱいでも

春日大社の奥の山は静かで

山の薫りで満ちていました。

世界遺産 春日大社 公式ホームページ

 

 

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ここは入り口付近。

 

 

10年以上前だったか。

ここに来たときには、ほとんど人がいなくて

結婚式が行われておりました。。

その時はひとりではなかったから、土日だったと思うんだけど。

様変わりしましたね。

 

連休に入ってから、ほとんど家から出ずに過ごしたところ

ストレスが溜まっていたようです。

行きの電車の中で悶々としていたら、「悩まない、自己憐憫を手放す」という言葉に出会い、すぐに悩むのをやめました。

だからって、悩むなとか、悩みというのはすべて自己憐憫だとかいう

一般論にはいたしませんし、そうではありません。

 

昨日の私は、そうだった。

悩まずに直感で動くことを選んだ。

 

やっと自分自身をまるっと信じられる境地になったのだろうと思います。

何はともあれこれでよい。よくなくてもそのままでよい。

 

近鉄特急はとても心地よく、今まで使わなかったのが嘘みたいでした。

多少根が張りますが、昼も夜もコンビニおにぎりにしておけばいいですし

疲れが違うのでコスパはいいはず。

帰りは変なおっちゃんが後ろの席から二度ほど蹴ってきたけれど

うたた寝しながら帰ってこれました。

 

奈良観光の目的はもうひとつ!

奈良の雑貨とカフェBAR ことのまあかり

のかき氷を食べること。

 

狭い店内はすでにいっぱいでしたが

閉店ぎりぎりということもあって

スモモのかき氷に癒されてきました。

 

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かき氷今年初です。

 

ちょうどなら燈花会の開催中。

da-inn.com

 

興福寺の夜間拝観にも行けました。

法相宗大本山 興福寺

夕方6時でも昼のような明るさで、それなのに、博物館とか全部閉まっちゃうんだもん!!!

 

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どうも最近、建築物が気になって仕方ないです。

萌えポイントが人から建物へ(笑)

もはやヤバい人になりつつあるのか・・・。

 

「何もなかったところに出現する」「出現したとたんに、周囲を変化させていく」

この不思議に魅了されています。

絵画も彫刻も同じ理由で魅了されてます。

 

ところで、私自身、「かわいそう」という視線があまり好きではないです。

「かわいそうだから」という理由で付き合われるのが苦手かも。

っていうか、嫌いな相手にだけは「かわいそう」と私が思うからかもしれない。

 

「かわいそう」から生み出されるものは何もないし

「責めたらかわいそう」は、いじめを助長する働きになってるし

なんとなく、感情の向け方が歪むのがわかる。

自分に対しても同じかもしれません。

自分をかわいそうと思ったら、思考停止になります。一歩も動けなくなる。

可哀想な時もあるけど、浸りたい時もあるけど

そればっかりもつまんないってことで!

 

人って情緒に流されてる時がヤバいよ。

心は熱くても、頭は冷静にならないと。

日本人は「冷静に」を「加害者の気持ちもわかる人に」って勘違いしてるから

加害者に情緒的に加担することを「客観的」と呼ぶんだけど

それは違うからね。

 

加害は加害だと判断すること。

被害の状況を情緒的に低く見積もらないこと。

「被害者かわいそう」→い一方的な見方をしちゃだめだ→「加害者かわいそう」→???

 

これ、普通にやってるから、精神世界系の人たちも。

 

このフィルターを取らない限り、しんどいと思う~~~~。

 

 

台風、心配ですね。

今日は買い出ししてこよう。

放っておくということ

お盆です。

 

クレヨンを溶かしてモビールを作りました。

こういう一人作業好きです。

おうちが少しいい感じ。

 

女性って「かまいたがる」ことありませんか?

 

「一生懸命なのにかわいそう」だとか「大変なんだから」とか

何とか理屈をつけて、かまってしまう。

でもさ、もし「かまわないで」って言われたらどうだろう。

 

すごく虚しくなるんじゃない?

何していいかわからなくなるんじゃない?

 

今の男性のことって、すべてがこの「かまわれすぎ」の問題だと思う今日この頃です。

 

私も息子を育てたからわかるんだけど(ってそれも主観的だけど)

息子はかわいい。構いたくなる存在になってるよ。

それが男の子の生き残る術のひとつだろうとも思う。

 

だけど、それは真実じゃない。「男の子はかわいがらないとダメなの」てのは

小さい頃の、男の子が見捨てられないために知らず知らずに出してるオーラ。

それを拾うのは小さい頃だけでいいんじゃないかな。

 

大人になってまで「かわいそう」「かまってあげるのが女性性」な~んてやってるから

いつまでもお子様な男性ができあがる。

 

離婚されても、女性はひとりで生きてくけど、男性は実家に戻って両親に子育て手伝わせることが多い。独身の人も、いつまでも親にご飯作ってもらってる。

 

男に逃げ場がないことや、男が大変なことは

男社会の中で、男自身がこれから解決すべき問題だと私は思う。

しどいからって、アルコールやタバコに依存するのと同じように女に依存するって変でしょ。

女は「摂取するもの」ではないよ、人間だよ。

 

そして、女は男を依存させることで「生きている気になる」のをやめたほうがいいんじゃないかと思うようになった。

 

「男を支えないと」って必死になって、それを自分の生命力にしてる。

う~ん、自己責任って言ってる人ほど、そこ、逆になってるのが不思議。

 

世の中では、フェミニズムをおかしく捉える人が多いのだけれど

私にとっては、フェミニズムほど男を解放する思想はないわけで。

フェミニズムの女性と付き合うほうがずっと楽だと思う。

男に「男として頑張らなければ」を強制しないから。

 

男を「かまう」ということは、すなわち「頑張らせる土壌を作る」こと。

 

まあ、犬でも猫でも魚でも、世話をするのは楽しい。

男をペットと思うなら、世話するかなあ、嫌だなあ。

 

もし、あなたが夫や子供の世話をやめることができたなら

あなたは何がしたいですか?

 

その時間を何で埋めますか?

 

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ロイホのスイーツは進化してるね。