青い鳥を探して

お話、聞きます。

偽らない法則

「法則」ってタイトルにすれば読んでもらえるかもと思う法則www

 

昨日、近所のショッピングモールに行ったところ

今は何をしているかわからない長男にとても良く似た雰囲気の青年とすれ違いました。

そしたら急に何かこみあげてきて、自分で驚いてしまいました。

 

日頃はほとんど思い出さないのにね。

 

私は、息子たちのことを心配しない(ニートでも)母親なので

とても変わっているのかもしれないけど

彼らのことは、心の中でずっと祈ってるんだと思う。

自分のことを薄情な親だと責めたこともあるけど

そうじゃないんだよね、たぶん。

日本人って、「いつもいつも口うるさくすること」が心配することだと思ってるような気がするけれど、それって自分の安心のためだから。

そやって、他人の事で頭をいっぱいにしてたら、自分の人生どっか行っちゃう気がする。

 

「わたしは自分より子どもを大切にしている」と思い込んでるけど、自分より大切なものなんてこの世になくて、自分が自分を大切に思うからこそ、他人の人生を尊重できるんだと思うんだ。

 

で。

 

偽らない法則なんだけど。

 

わたしは、自分が一番だから、「そういう扱いは嫌ですよ」とはっきり言っちゃいます。

相手を支配したいかのように見えるかもしれないけれど、自分がどう扱われたいかを表明することは大事だと思っていて、それで、相手に嫌がられたら、それはそれまでかと。

 

みんな、忖度が好きで「相手がこう思うだろう」「こんなこと言ったら相手が不愉快に違いないからやめとこ」と、相手に委ねて自分を偽るから、愚痴になっちゃうし、「どうでもいい相手と付き合っててつまらない」なんて言うのかなと思います。


「相手を慮って言わない」を続けていると、どうやって相手に気持ちを伝えるかがわからなくなる。→「傷つけるから言わない」一択になる。→それを繰り返していると、偽りの人生になる。

 

 

それに、「わたしは、他人を傷つけないで生きてます」だと、「そんな私を嫌うなんて、受け入れないなんて、信じられない」という傲慢な人になりそうで怖い。

 

子どもやパートナーにがみがみ言うことが心配することではないように

「だったら何も言わないで、自分が変われば相手も変わってくれる」などと「自分が愛でいっぱいになって、優しく天使みたいであれば、相手が私に優しくなってくれるかも?」な~んていう期待することは、優しさではないと思うのです。

 

私もあなたも天使じゃね~し。

人間だし、嫌いも好きもちゃんとあるし。

だから、本気で人と人は愛し合うんだろ、違う?

 

「許せないとこあるけど、でも好き(*´ω`*)」って萌えるでしょ。

 

「許してくれてないとこあるけど、でも愛されてる(≧▽≦)」って良くない?

 

ど~でもいいか(笑)

 

んで。「法則」という言葉につられて読んでくれる人がいるといいな!

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昨日は一人ドライブしてきました。

新緑がとても鮮やかで、しかも、山の中にはまだ桜が残っていたので

緑色とピンクのコントラストが美しすぎて、感動のあまり「いい人生だなあ」とまで思いました。

 

自然は大好きですが、今年ほど、葉っぱの一枚一枚に美しさを感じることはないかも。

 

急に思い立ってドライブになったのですが

「ドライブに行きたくなる出来事が起きたのは、私がこの緑を見るためだったんだなあ」と思うと、起きてくる出来事は全部〇で、思い通りにならないことも、それはマイナスでもネガティブでもなく、すべてはうまくいくための道に過ぎないんだろうと思います。

 

最高か!

人の人生はあなたが読むためにあるわけじゃない

やっと日中は過ごしやすくなりました。

 

先日、職場の近くにこういうのを見つけました。

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何かな~何かな~

 

異次元につながるトンネルだったらいいな。

小人さんが出てきたらいいな。

 

どこを見ても、何を見ても、楽しく美しいものです。

朝日に感動し、夕陽に感動し、雲を見ては喜んでいる。

それだけは小さい頃から変わりません。

写真や絵にする技術はないので、それだけが残念です。

 

自然はなくならないからいいな~~~いつでも感動できる。

 

************

 

最近は、流せることが増えました。

前は、無理する→動けなくなる、のパターンが普通で

それを「止めなきゃ、無理止めなきゃ」と自分が我慢するようなことを

徹底的に避けようとしてました。

 

まあ、そうでもしないと、倒れてばかりでしたから。

 

だけど、今は、少々しんどいことがあっても「復活する」ことがわかったので

特に気にならなくなったのです。

 

流れに任せていく、という感覚が少しつかめたのかもしれません。

 

面白いことに、同じ日に同じことを違う人から言われました。

「充実してていいな」って。

 

前は、自分で用事を作って気持ちをアゲアゲにしたくて頑張ってたけれど

ここんとこ、用事が飛び込んできて忙しい。

誘われることが増えて嬉しい悲鳴です。

 

ただし、自分の時間が削られるのはダメなので

その線引きはちゃんとやります。

 

家族や仕事という、自分以外のことで心をいっぱいにする癖のある人は

やはり、子どもが巣立ったり、仕事が暇になると「どうしていいかわからない時間」がやってくるようです。

そこから、自分のやりたいことを見つけるのが難しいのかもしれません。

 

私など、寝てるか書いてるかカフェにいるか(笑)

妄想でへらへらしているか、悲しくて凹んでいるか(笑)

そういうことで「忙しい」ので、決して「楽しそう」に見えても

「楽しい」ということでもなく、「土管を見て妄想なう」っていう感じ(余計わからんなwww)。

 

仕事や家事という現実にどっぷりと浸かることなく

蜜を探しにあちこち心がお出かけしている状態といったらいいのか。

 

うちの母親は、子ども達に音楽をやらせることで、自分の満足を得ていた人なのですが

私が思うに、どうしたって他人の成果を取り込むことなんてできっこないんです。

自分で積み上げたものだけが、年齢を経て自分のものになるだけで。

だから、どれだけ他人を見て羨ましがっても、他人の成果から学ぼうと思っても

それは無理な話で(いけないということでななくて)

自分でやったことだけが自分のものになる。

シンプルにそれだけのこと。

 

いつから始めるかも問題ではなくてね。

とにかく「自分でやろう」と決意することでしか始まらない。

 

子どもの人生を見て、それを自分の人生であるかのように錯覚している母親をずっと見てきたので、私はそれだけはやめようと。

「子どもを応援している」「孫が私の生きがい」って

結局、自分では何一つしない、と宣誓しているようなものだから

きっとそれを心の底から望んでいるのだろうと私は思うし

だからこそ、母のそばには戻らないと誓っているんだけどね。

 

「わたしに、あなたの素晴らしい人生を見せて頂戴」ってずっと求められる人生をやめてから、私は自分を取り戻した。

 

見たい物語は自分で創るものだよ。

 

つまらない人生を見たくなければ、つまらなくない人生を歩けばいい。

 

ということで。

書いているうちに何かテーマらしいことが出てきたようです。

十連休、どっこも行かんぞ!

 

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変化の途中らしい

昨日、油断して薄着したら喉が痛いです。

せっかくのお休みなのに、というか、お休みでよかった。

ゆっくりしています。

 

自分の中で自分が違和感があって

「これは何かが変わるんだろうな」という自覚はありました。

脱皮する前のヘビのよう(せめて蝶に例えたいw)。

 

それを確認するかのように、ある人に見てもらったら

「変化の途中なのでそれも楽しみましょう」と言われました。

「違う、そうじゃない」的な思い。「早く人間になりたい」というのに似た叫び(わかる人にはわかるw)。

違和感を抱えて生きているのが少々しんどくなり

相談したようなものでしたが、見事に言い当てられてほっとしました。

 

いやしかし。衝撃だったのが、「あなたが本当に求めているものは何ですか」の問いに対する答えで、私の中で「それを一番にしたらあかんやろ」と本気で「これはサブ」「これはおまけ」と思っていたことが「それ」だったことです。

 

「昔の私のイメージとは全く違うので」と言ったら「いや、周囲にもバレてますよ」と突き放され(泣)マジか!マジか!と心の中で繰り返しながら、その場を後にしました。

 

私が表面的に、というか、けっこう本気でやろうとしていた仕事とか、社会貢献とか、ぶっ飛んでしまいまして。

でもそれも、自然に変化していくようなので、もう流れに乗っていくしかありません。

 

ってかそうか、それで今日の体調悪化なのかもしれませんね。

 

私自身、ものすごく短気で怒りっぽく、人間関係をすぐに悪化させるのが得意。ばあちゃんそっくりやな、と冷めた目で自分を分析してみたりしてたのです。おばあちゃん、盲腸の手術が嫌で病院から逃げ出したし、もう一人のばあちゃんも、けっこう血気盛んな女性だったっぽい。おとなしく男の人の言うことに従う人ではなかったようで、若くして未亡人になったのにずっと一人だったんですよね。

 

自分の中の激しさも抱えつつ、相手との関係を大事にしたい、というような感覚がふと芽生えてきて、そんな自分自身にとまどっています。

結婚してた頃には、とても元夫に対してそういう気持ちになれなかったもので。

 

昨日

「あなた、本当に仕事していきたいの?」とまっすぐに聴かれて・・・

「仕事の相談をされても、全く違う風に見えるけど?」と私ではなく、何か違うほうを後ろのほう?向こうのほうを見て言われてしまい・・・

「仕事は減る方向に行きますよ、自然に」・・・「え~~~~~!!!」

っていう展開(爆)

いやそれはどういう・・・生活・・・人としてそれでは・・・頭の中がぐるぐるぐるぐるしてしまい・・・そのまま今日を迎えております。

 

この、内面の変化と、外側の変化が、やっとマッチしたと。

 

ホントに、外側も変わってきている。

今までにない人間関係に満ちている。

この4年間、自分に素直に行動したことが全部正解だったということもわかり、自分自身の動物的勘はあてになるよと思ったことでした。

いつか、すべてのハプニングを出したいんだけどね、必死で行動して、失敗して、泣いて笑って毎日を過ごしてきた。きっとこれからもそうすると思います。

 

ブログも変わるのかも?

 

では、雨の日曜日。まったりとお過ごしください。

 

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自分を開くだけで

今日は朝から奇跡が起きて

たまらなくてブログを書くことにした。

 

奇跡、と聞けば「何かいいことでも?」と思うだろう。

違うんだな、そういうことじゃない。

 

わたしは、初めて人に本気で甘えてみた。

ある人にめちゃくちゃ怒ってしまった。

傷つけたとも思う。

だけど、その人にもう一度メールを送ったのだ。

それがどうしたって思うかもしれない。

そう。メールなんてすぐに送れるし、目の前に相手はいない。

 

私の心の中の変化。

「ダメに決まってる」と思ったことへのチャレンジ。

「自分が欲しいと思ったことに対して、恥も傷つけられることも覚悟で求めること」へのチャレンジ。

 

そして、そうしようと思った時に奇跡は来たんだ。

 

今まで、私が大嫌いだった仕事上の人に対して。

「あれは私だった」ということが明確にわかったのだ。

「こんなに酷いことをしても許してくれるよね?わかってくれるよね?認めてくれるよね?」と彼女たちは私に堂々と求めてきた。

わたしは、自分にそれを許していなかったから、彼女たちが許せなかった。

 

でも、私もそうしたかったのだ。

傷つけた相手に、許してもらいたいと思うし、もう一度つながりたいと思う。(好きな人限定だけどw)

それは恥ずかしいことかもしれないけど、みっともないけど、素直な気持ちだとしたら、それを「否定する」より「認めた」ほうがいい。

自分の中にあるそのみじめったらしい気持ちをやっと認めたら、やっと彼女たちのことに対する気持ちが変化したのだった。

 

これを奇跡と呼ばずに何と呼んだらいいのだろうか。

 

不器用な自分に優しくなりたいと思った。

そんなんじゃ嫌われるよ、ダメだよ、求めちゃいけないよという声に押しつぶされていた自分を解放した。

頑固で融通の利かない部分を否定している限り、相手のそういう部分を認められない。

もっともっと自分を認めて、相手に開いていっていいんだと思った。

 

たとえ嫌われても、開いて嫌われるのと、こっちから勝手に諦めるのとでは違う。

似たようなことは今ままでもやってきたし、やろうとしたんだけど

そうじゃなくて、もっと軽く、自責の念なしに、開くということがわかった。

自分が悪いと思っていると、「甘え」すらも重くなる。

 

そして、相手の甘えを許すべきかどうかも迷ってしまう。

だけど、自分の甘えを許したら、甘えても無理なこともわかるし、甘えられても無理なものは無理だということに躊躇がなくなるし、そこに人を責めるエネルギーを乗せなくていい。

 

「いや、私は今、甘えられても無理なんで」という時に、「甘えてんじゃねーよ」という感情を入れなくなるということだ。

 

自我は「甘えを許せない自分を責めろ」と言ってくるんだけどね(笑)

 

わたしは、とてもユニークで

例えば、今のネイルを「褒めてくれる人」はいっぱいいるのに

ネイルを見ようともしない人を好きになったりする。

で、「ネイルに注目してくれないコト」に腹を立ててしまう。

ネイル、良くなかったのかな、と思って悲しくなったりする。

 

いやいや、もうすでに5人以上の人に褒められたよね?

なんでそれを認めないんだよっていう話になるよね。

 

自分のことは自分で見えないんだけど

こうして、わかることがたまにある。

それは、人間ではないもの(人によっては神様とかハイヤーセルフとか言う)に自分を開いて「何が来てもいいので、私に奇跡を見せてください」と思っているだけでいいらしい。らしい、でしかないのがいいところ。

 

甘えたいオレってかわいい。

 

それが叶わなくても、甘えてみたからそれでいい。

 

何かを欲しいと思うことを卑しいと思ってる人にはできないことだ。

自ら手を伸ばして手に入れようとすることをいじましいと思ったらできないことだ。

環境の中で当たり前に与えられていて、望むことをせずに済めば、そう思うだろうと思う。

けれど、本当に欲しいものがわかる瞬間はギフトなんだ。

それを願い、がむしゃらに求めることを私は恥と思わない。

 

「ありがたい」とか「与えられてるから幸せ」と言ってる人もいるけれど

わたしはひねくれてるから、そう思えないことのほうが多いんだ。

もっともっと自分を満たしていきたい、わがままで贅沢で傲慢な人間だから。

 

私に起きたたくさんのトラブルは、私に甘えることの試練を与えてくれていたのかもしれないと思う。

地震でやられた時も、子どもたちの不登校の時も。

周りに頼れ、ひとりでやるなっていうメッセージが含まれていたんだ。

甘えている人を見て「いいな」「わたしにはできないな」と指をくわえてみていた。

でもやっと、本当の「甘える」の先っぽと捕まえた気がしてる。

 

私の目の前に現れてくれるすべての人が教えてくれる。

 

それが奇跡。

自分を開くだけで

今日は朝から奇跡が起きて

たまらなくてブログを書くことにした。

 

奇跡、と聞けば「何かいいことでも?」と思うだろう。

違うんだな、そういうことじゃない。

 

わたしは、初めて人に本気で甘えてみた。

ある人にめちゃくちゃ怒ってしまった。

傷つけたとも思う。

だけど、その人にもう一度メールを送ったのだ。

それがどうしたって思うかもしれない。

そう。メールなんてすぐに送れるし、目の前に相手はいない。

 

私の心の中の変化。

「ダメに決まってる」と思ったことへのチャレンジ。

「自分が欲しいと思ったことに対して、恥も傷つけられることも覚悟で求めること」へのチャレンジ。

 

そして、そうしようと思った時に奇跡は来たんだ。

 

今まで、私が大嫌いだった仕事上の人に対して。

「あれは私だった」ということが明確にわかったのだ。

「こんなに酷いことをしても許してくれるよね?わかってくれるよね?認めてくれるよね?」と彼女たちは私に堂々と求めてきた。

わたしは、自分にそれを許していなかったから、彼女たちが許せなかった。

 

でも、私もそうしたかったのだ。

傷つけた相手に、許してもらいたいと思うし、もう一度つながりたいと思う。(好きな人限定だけどw)

それは恥ずかしいことかもしれないけど、みっともないけど、素直な気持ちだとしたら、それを「否定する」より「認めた」ほうがいい。

自分の中にあるそのみじめったらしい気持ちをやっと認めたら、やっと彼女たちのことに対する気持ちが変化したのだった。

 

これを奇跡と呼ばずに何と呼んだらいいのだろうか。

 

不器用な自分に優しくなりたいと思った。

そんなんじゃ嫌われるよ、ダメだよ、求めちゃいけないよという声に押しつぶされていた自分を解放した。

頑固で融通の利かない部分を否定している限り、相手のそういう部分を認められない。

もっともっと自分を認めて、相手に開いていっていいんだと思った。

 

たとえ嫌われても、開いて嫌われるのと、こっちから勝手に諦めるのとでは違う。

似たようなことは今ままでもやってきたし、やろうとしたんだけど

そうじゃなくて、もっと軽く、自責の念なしに、開くということがわかった。

自分が悪いと思っていると、「甘え」すらも重くなる。

 

そして、相手の甘えを許すべきかどうかも迷ってしまう。

だけど、自分の甘えを許したら、甘えても無理なこともわかるし、甘えられても無理なものは無理だということに躊躇がなくなるし、そこに人を責めるエネルギーを乗せなくていい。

 

「いや、私は今、甘えられても無理なんで」という時に、「甘えてんじゃねーよ」という感情を入れなくなるということだ。

 

自我は「甘えを許せない自分を責めろ」と言ってくるんだけどね(笑)

 

わたしは、とてもユニークで

例えば、今のネイルを「褒めてくれる人」はいっぱいいるのに

ネイルを見ようともしない人を好きになったりする。

で、「ネイルに注目してくれないコト」に腹を立ててしまう。

ネイル、良くなかったのかな、と思って悲しくなったりする。

 

いやいや、もうすでに5人以上の人に褒められたよね?

なんでそれを認めないんだよっていう話になるよね。

 

自分のことは自分で見えないんだけど

こうして、わかることがたまにある。

それは、人間ではないもの(人によっては神様とかハイヤーセルフとか言う)に自分を開いて「何が来てもいいので、私に奇跡を見せてください」と思っているだけでいいらしい。らしい、でしかないのがいいところ。

 

甘えたいオレってかわいい。

 

それが叶わなくても、甘えてみたからそれでいい。

 

何かを欲しいと思うことを卑しいと思ってる人にはできないことだ。

自ら手を伸ばして手に入れようとすることをいじましいと思ったらできないことだ。

環境の中で当たり前に与えられていて、望むことをせずに済めば、そう思うだろうと思う。

けれど、本当に欲しいものがわかる瞬間はギフトなんだ。

それを願い、がむしゃらに求めることを私は恥と思わない。

 

「ありがたい」とか「与えられてるから幸せ」と言ってる人もいるけれど

わたしはひねくれてるから、そう思えないことのほうが多いんだ。

もっともっと自分を満たしていきたい、わがままで贅沢で傲慢な人間だから。

 

私に起きたたくさんのトラブルは、私に甘えることの試練を与えてくれていたのかもしれないと思う。

地震でやられた時も、子どもたちの不登校の時も。

周りに頼れ、ひとりでやるなっていうメッセージが含まれていたんだ。

甘えている人を見て「いいな」「わたしにはできないな」と指をくわえてみていた。

でもやっと、本当の「甘える」の先っぽと捕まえた気がしてる。

 

私の目の前に現れてくれるすべての人が教えてくれる。

 

それが奇跡。

当たり前の世界へ

昨日は京都へ。

相変わらず多くの人で賑わっていました。

必ず和菓子と漬物を買って帰ります。

 

私の周りが少しずつ変わり始めてきました。

問題がなくなったわけでもなく、相変わらず寂しかったり悲しかったりもあります。

だけど、なんだろうな。

自分が卑屈になるシーンが減ったような感覚。

でもこれ、生まれた時からこの感覚で生きててよかったんじゃね?と私は思うんです。

 

日本の女性の扱いがあまりにもひどい。

家庭の中でも、父親から「男を気持ちよくさせる存在であれ」という無意識の抑圧がある。母親からは意味のない嫉妬を受ける。

女性が育つ集団がいびつになったり、自分を否定してしまうのは当然だと私は思うのです。

 

女性が生まれた時からのびのびと育ち、男性の視線など気にしなくてよかったら。

もっと早く、自分を確立し、堂々と恋愛していると思うし、子育てにこれほど変な悩み方をする人も減ったのではないだろうかと。

 

そう思うと、まるで女性の内面だけが問題であるかのようなカウンセリングやセラピーの「そもそもの在り方」がおかしいのかもしれないですよね。

だって誰にも問題なんてない。

 

問題があるかのように思わされているだけ。

依存があると勘違いしたり、現実がうまくいかないことを「解決するべきこと」と思い込んだり、そのために誰かに「私についてくればいい」と思わされたりする。

 

人生に解決するべきことなどないとわかったら

もっともっと心安らかにいられる。

出来事が見せてくれているのは、単なる映画に過ぎなくて

それを見て悲しんだり、泣いたりしている。

 

女性だからこうすべきとか、愛されなくちゃとか、パートナーを見つけなければとか、見つかったら大事にしなくちゃとか、愛さなくちゃとか。

子どももそうだよね。子どもを愛さなくちゃとか、うまく育てなくちゃとか。

 

そうなってないのは、自分に問題があって自分を生きていないからだとか。

それも思い込み。

 

あなたに問題はなかったとしたら。

何も問題などなかったとしたら。

 

びっくりするよ。

 

自分の行動を決めることは、解決することとは全く別の話なんです。

嫌な場所から逃げるということを決める。

でも、トラブルは解決しない。

それでいい。

 

解決してから逃げようと思うから、逃げれない。

 

解決する方法ばかり、アドバイスするけれど、解決いらない、まず行動。

 

男性の気持ちを慮りすぎ。

相手を見くびりすぎ。

それは女性にとって危険だからだけど。危険だと思わされていたからなんだけど。

 

自分が悪いと思っていればとりあえず危険ではないと思い込んでいた世界から、自分は悪くない、思い通りに生きても大丈夫、と思う世界へワープすればいい。

 

あなたが問題である、と思い込ませる場所から逃げること。

 

それはカウンセリングであろうがどこであろうが、あなたの味方のふりをして、あなたを問題児であるかのように、導く人からも逃げるんだよ。

 

そして、怖くても自分で決めて、自分で進むことです。

 

それは、頼ってくれるから生きていけるという毒親のような人をも開放する。

どうか、やってみてほしいな。

 

何をちらつかされても、脅されても、気にしない。スルーする。

 

そしたら、自分も脅さなくなる。誰のことも支配しなくなる。

 

悲しみも辛さも、自分のものだから。誰のものでもないから。分かち合ってくれるという幻想を持っている以上、ひとりでいられない。

そして、自分で引き受けると、本当の意味で助けてくれる人が現れると思うけど。

 

私もまだ、途中の途中だけど、軽やかになりました。

軽やかになると、できていないところや、どうしたいかもはっきりするから、やっとスタートラインに立った気がしています。

 

自己肯定感を養うというのは、本来なら、育つ間になされることなのに

日本で育つと歪むんだよね。

その歪みを取るのに、お金を取られるんだよ。

身体を壊すぐらいの歪みになってるから。

ほんと、バカみたい。

 

そして、新しいしがらみと規則を身に着けてまた、人からお金を取って「あなたの自己肯定感を埋めてあげましょう」という人になる。その連鎖をとうしたら切れるんだろうね。

 

やりたいことをやって生きている人の「内面」「考え方」をお手本にしてみよう。

「こうしなさい」「こうしなきゃ幸せになれないよ」とわざわざ押し付ける人の言うことは聞かなくていい。

それはまた呪縛になる。

 

呪縛のない世界が当たり前になりますように。

 

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結果じゃない

やっと暖かくなりました!

 

今日はお花見日和ですね。

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写真で花見~~~

 

最近、悩み方が変化してきました。

それが、誰かの役に立つかなと思ったので少し書いてみますね。

 

そもそも、わたしはあまり悩まない人でした。

子どもが学校に行かなくても、自分がうつ病になっても

悩むより自分を責めるほうが勝っていましたし

現実の処理に常に目を向けていましたから

ぐじぐじ悩むことはありませんでした。

 

けれど、その現実を処理する時に

やっぱり「こうしたい」という目的があり

「どうしてそうならないんだろう」というジレンマと戦っていました。

 

そうならなくてもいいんですけど、若干の諦めがあり

「わたしだからうまくいかないんだろう」という風に結論づけておりました。

 

それがもう辛くてね。

 

だけど、この頃、そう思わなくなったんです。

誰かに「こういうことを言いたい」「自分はこうだと伝えたい」(みなさんは、言うことすらためらっていらっしゃるかもしれませんが、私は”言いたいこと”がはっきりしているので、そこからの出発です)と思っても

ちょっと寝かしておくことが可能になりました。

それは、自分の主張を引っ込めるとかやめるとか、優しくなるってことではないです。

自分の中にある「気持ち」は最大限尊重して上での話です。

 

保留にしておくことにしたのです。とりあえず。

 

そしたら、たいていの場合、うまくいくことがわかりました。

相手に負けることもなく、我慢することもなく、なんとなくうまくいく。

結果はないんです。

そこにあるのは、心の平安みたいなもの。

 

以前なら、決別してしまったかもしれないシーンでも

相手から理解のあるメールが届いたり。

私は、私の気持ちを素直に書いただけで、それをどう受け取られるかにドキドキはするのですが、それでも相手に従ったり謝ったりはしないまま、うまくいく。

 

「わたしは理解してもらえない」という思考が少し外れたのかもしれません。

 

よく「世界は優しい」と言う人がいます。

優しいのは人ではなくて、「世界」なんだけどね。

「人」を悪く言うと「あなたは世界を意地悪だと思ってる」みたいに言われたんですよ。違いますよ~

人は意地悪な時もあるし、問題もある。それは他人も自分も同じです。

 

ただ、どんな出来事があっても、「世界は優しい」と思うことはできるということです。

それを学んでいるといつも思います。

 

今の状況を「悲しい」と認識することもできるし「ゆっくりできている」と認識することもできる。どっちを選ぼうかなあという感覚。「悲しい」を選んで、悲しみをじっくり味わう時間にしても、それはそれで自分に優しいと思うんです。

 

どちらを選んでも誰にも批判も非難もされない。自分でいるだけです。

 

選ぶことにさえ脅してみたり、「あなたはそれでは幸せになれない」なんていう人をたまに見かけますが、そんなことして楽しいかな?その人がそうやって自分を脅して生きているんだろうな~と思いませんか?

 

自分の話ですが

今日みたいなお花見日和に「ひとりだよ」と思ってちょっと悲しくなったんですね。誰もお花見さそってくれない(笑)みたいな。

でも、ゆっくりと朝ご飯を食べ、洗濯をしているとね、たまらなく幸せを感じました。

好きなように時間を使える。誰にも強制されないトキを生きている自分、それをずっと望んでいたことも思い出しました。

そして、ひとりで「いる」と思ってるけど、実は、ちゃんと「おはよう」と言ってくれる人もわたしにはいる。今日もわたしを思い出してくれる人がいる。

その上で、一人時間を過ごしている。こんな至福はないなあと思います。

 

幸せというと「お金が降ってきた」だの「恋人ができた」だの

即物的な(笑)ことで観察して「ほら、こうすれば幸せになるでしょ」と言わんばかりの宣伝が増えてる最近ですが

マジでそういうことじゃねえからな!って言いたい。

 

今、外食を止めて、お弁当を毎日作っています。

外食していたあの日々は素敵だったけど、飽きてしまった。

まあ、その欲望を満たしてあげたからそれはそれで落ち着いたんでしょう。

だって、息子たちのアレルギーとレストランでおとなしくしていられないことがあって、家族で外食なんてほぼしなかったですから。憧れていて、外食できる幸せを味わってみたかった。お弁当作りも飽きてたしw

 

なのに、「私が今、何にお金を遣いたいか」を真剣に考えたら、「外食は最低限に」になりました。(カフェは別(*^^)v

自分を満たして満たしていくと、本当の望みに近づくのかもしれません。フェイクだった望みを叶えてあげることで、「あ、これいらない」に気づける。

 

お弁当作りの時間が全然苦痛じゃなくなりましたよ。

過去の私には考えられないことです。

 

そうやって、幸せを見つけていくことが幸せなのかもしれません。

結果じゃないんだよなあ。

だから、どんな時であってもその人はその人でいいし、世界に自分を委ねられるまでやってみたらいいと思う。

 

この感覚を、分かち合えますように。それを世界に祈ります。

 

 

昼からお花見でも行きますか

 

地元は桜の名所がいっぱいなのです。

 

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