風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

そろそろ「理想」の結婚を手放しませんか

急に寒くなりました。

みなさま、お元気ですか。

 

もう誰も読んでないかもしれないのに、と思いつつ。

備忘録として書いています。

 

今の時代に「理想の結婚ができた秘訣を教えます」というセミナーがあることに

びっくりした次第です。

若いっていいな(違うか・・・

 

そういう夢のある時期もあっていいけど。

でもそれが自分を縛る鎖になるとしたら、手放していいと思います。

 

そもそも結婚するべき、という常識。

そして、その結婚は素晴らしくあるべき、という縛り。

 

どちらもいらないですよね。

 

結婚しなくていいし、理想の結婚(一度目から完ぺき)である必要などないからです。

 

多くの女性から見えていない部分で、セックスレスで悩んでいる夫婦は山ほどいます。

それは、私から見ると、いわゆる「結婚後に恋愛感情が冷めて、どちらかが片思いになってしまった」状態です。

 

どちらかは、ずっと恋愛感情を抱き続けていて、セックスしたいと思っている。

だけど、もう一人はもう恋愛感情がなくなって(家族愛になってしまった場合も含む)セックスはできないと感じている。

 

結婚していないカップルであれば、さっさと別れてしまえとアドバイスされる事案です。

いつまでも実らない片思いをしていないで、新しい恋に向かいなさいと。

 

しかし、結婚したからには、片思いは許されない、もう一度両想いにしてみせる!と日々努力しておられる方もいらっしゃるようです。

人の心はそんなに簡単に自分の思い通りにはなりませんけど?

 

でも、こと結婚となると、「思い通りになって当たり前」だと錯覚されるのは不思議なことですよね。何年も悩んで苦しんでいることを「善」だと信じている。

 

ということを考えても。

 

「理想の夫婦」になることを前提としたパートナー選びがいかに間違っているかわかると思います。

セックスレスの人たちの半分は、結婚した時に「理想の人」だと思ったはずです。

 

どんなに結婚当初の気持ちがビンゴであっても

その気持ちは必ず変化します。

そうでなければおかしいです。

いつまでも20歳や30歳で心の動きが止まっていたら、それはもう人ではありません。

 

ですから、理想の人でなければ!とか絶対に一生同じ気持ちで!などと思い込んでしまうと、結婚するまでもしんどいですし、結婚してからもしんどいです。

 

私など、理想の結婚をしたつもりでしたが

そりゃこちらも成長しますしね。

理想そのものが変化していくわけですから

いつまでも彼は理想の人ではいられないってことで。

 

だから、いいんですよ、別に。

そこまで理想を追いかけなくても。

失敗したっていいし、途中で意見が変わっていい(笑)

だいたい、浮気しない男を見つけるほうが難しいです。

40~50代の男性のほとんど(勝手な私調べ)は、「違う女性とも付き合ってみたい」と思っています。実行するかしないか、実行できるかできないかは別としても。

 

家庭でどんな話をしてるか知りませんが。

 

で。

 

理想のパートナーを決める必要ありますか?ということです。

 

自分の中に「理想の人間」を創り上げてしまうことに

疑問ありませんか?ほんとうに?

 

理想のパートナーが見つかってしまったとしたら

次に求めるのは「理想の子ども」です。

子どもにしてみれば、毒親の誕生です。

 

わたしは理想を叶えられる能力がある、なんて思い込んだら最後

毒親まっしぐらです。

 

そんなセミナーを受けるぐらいなら、どうか、たくさんの人と付き合ってみてください。話してみてください。知ってみてください。

そして、「理想の人」などという幻を捨ててください。

 

理想の人になれるのは自分だけです。

自分が自分の理想の人になるよう、生きていくのが本当の「理想の求め方」です。

 

人生に正解はありません。

結婚にも正解はないのです。

自分らしく生きられる道があるはずです。

そこに向かって入れば、結婚するかもしれないし、しないかもしれないし、してから別れるのが必要かもしれないし、すべてが未知数です。

 

囚われないで、自由でいてくださいね。

 

アラフィフからのお願いです。

 

そして、セックスレスだの浮気されただの、いつまでも青春の片思いをしたまんまの中高齢男女のみなさま。青春は過去にして、今の自分を好きになってくれる人を探してもいいんじゃないですか。

家族愛は家族愛として。

人を自分の意のままにしようなどと思ったら足元すくわれますよ。

どうか自分を大切に、相手の人生も大切に。

 

では。またお会いしましょう。

 

自分を満たすこと

今日も暑いし身体は動かないし

ドラマも飽きた。

掃除しなきゃと思いつつパソコンの前にいます。

 

思い返せば、離婚前の自分の行動は笑えるもので

表面的に仲良くしたら元に戻るかなという実験だった。

けれど、魂は嘘がつけない。

どんなに一緒に時間を過ごしたとしても、

戻らないものは戻らないのだ。

私はその時に、「戻らない関係性」について学んだ。

 

心が伴わなくていい、というあっさりした家族が好みなら

それでも良かったのだろう。

そういう夫婦は掃いて捨てるほどいる。

 

「努力」というものは、自分のためにするものだ。

自分さえ満足すればそれでいい。

だから、あの時「夫と過ごす時間が最高」と自分が思えたら良かったんだけど

私はすでに満足できていなかった。

 

心が完全に離れていた。

 

最近、そのことをふと思い出す。

 

離婚してから親しくなった男友達はたくさんいるのだけど

元夫のような人はひとりもいない。

何かしらの親しみでつながっている。

 

仕事でのお客さんとのつながりも同じで

単なる「人」という記号ではなく

私の中に、彼らの素敵な部分が取り入れられる。

 

そうでなければ、私は人と付き合えないのだ。

 

「好き」という気持ちは一方通行だ。いつも。

子どもに対してもそうだと思う。

だからこそ、ふと「あちらも私のことを気にしてくれている」瞬間を感じた時の幸福感は半端ない。

 

「私が好きなら相手も好きだ」と思い込めるような強さは私にはないし

好きになってもらうために偽ることも良しとしない。

 

アラフォー以上になってまで、「家族との関係に満足できない、外で気持ちを満たしたい」などと言うのは、まさに、「相手も自分を好きになって欲しい」というエゴの現れでしかなくて、本当に満たすべきは自分の内側である。

 

家族と冷たい関係になったのは、お互いの日々の生活の積み重ねでしかないし

それを放置しておいて、外に満足が見つかるわけがない。

 

最近のわたしは、まるで存在しないBARのママのようだ。

一度去ったお客さんが戻ってくる。

「また来てもいい?」とたまにやってくる。

べったり居ついたりはしない。

お茶とおしゃべりをして帰っていく。

そして私は、そういう立ち位置が嫌いではない。

 

ずっと昔からそういう人になりたかったんだろう。

 

自分を整えてさえいればよい。

誰が来て誰が去ろうが、常に受け入れられる自分でいれば。

 

懐かしい感じで、「養育費もらわなかったけど」自慢や「離婚した元夫とも今はいい関係で」自慢を聞いた。

どうでもいいと思って聞いてる自分がいて驚いた。

マジでどうでもいいのだった。

そんなくだらないことでマウンティングできると思ってるんだ!と驚いた。

「あなたもそうなりたくない?」と暗に言ってきたので、

「いやいらんけど」と答えたら、困った様子だった。

もうそれは卒業したのだよ。私の人生はその先を見つめているんだよ。

 

絵に描いた餅のような人生を望んでいたあの日々が懐かしい。

 

外側の幸せで自分を測る時代は終わった。

休みます(#^^#)

あらゆる方向から「休め」というメッセージが来ているので休んでおります。

 

みなさんも、休める時には休みましょう。

 

一年間、慣れないことをやってみました。

めちゃくちゃ勉強になりました。

疲れたし病気もあったけど。

得たもののほうが大きかったなと振り返ってみてわかりました。

 

自分がどこまで何ができるのか。

あ、そうそう

昔、キッチンで働いて潰れたこともあったけど(笑)

できないことがわかるということ。

そして、それ以上に「人より得意なこと」がわかること。

 

私は昔から家族という関係が大の苦手なのですが

今回は、家族的過ぎてうざい人たちに囲まれて仕事をしておりまして。

きっと、経験したかった「うざさ」だったのでしょう。

辛さより満足が残ります。

ずっとここにいるのは無理だけど、こういう関わりを経験したかったんだなと

思った次第。

 

どうしてこの職場に来たのかずっと不思議だったのですが

そういうことだったのですね。

得られなかった「うざすぎる親の愛」の偽物バージョンを体験させてもらいました。

過干渉じゃん!!!と何度も思いましたし(笑)

だからあとは飛び出すだけです(爆笑)

不良娘はそうなりますって。

 

そして、うるさい母親や、少し意地悪な姉妹ともうまくやっていける人たちを見て

学ぶことはたくさんありました。

 

いずれ旅立ちはあるわけです。

いつまでも過干渉の親元にいてはいけない。

私はそう思っていますが、ずっとその場にとどまる人もいます。

そういうところも、実際の家族みたいで面白いところ。

 

日本の会社ってつくづく家族の形を模してるというか

男性にとっての第二の家庭の役割を果たしていたというか。

深いですね。

 

職場が家庭であり、素直な子どもとしてすっかり馴染んでしまう人が出世できる形。

仕事ができるかどうかじゃないというのが、何とも・・・です。

進化しないわけですが、居心地は悪くないんでしょう。

 

公務員より会社員のほうがずっと封建的ですわ。

そりゃ自民党勝つわ。

 

昔は企業って進んでるんだろうなとか勝手に想像していましたけど

いやいや、大きな会社であればあるほど、そこにある「昔ながらの」雰囲気は変わらないモノなのかもしれません。

 

起業する人に対しても「新しいな」と思っていたのは今や昔(笑)

だって起業する人自身が新しくないんですから。

育ってきた環境以外の価値観を学ぶことなく、自分の価値観だけでやるわけですから

当たり前ですね。

 

10月というのにまだまだ暑いです。

私はひたすらゆっくりしていますが

皆様もどうか、身体に気を付けてお過ごしくださいね。

 

身体を壊してから休んでも意味ないですよ。

壊す前に休みましょう。

 

では。

 

 

休みます(#^^#)

あらゆる方向から「休め」というメッセージが来ているので休んでおります。

 

みなさんも、休める時には休みましょう。

 

一年間、慣れないことをやってみました。

めちゃくちゃ勉強になりました。

疲れたし病気もあったけど。

得たもののほうが大きかったなと振り返ってみてわかりました。

 

自分がどこまで何ができるのか。

あ、そうそう

昔、キッチンで働いて潰れたこともあったけど(笑)

できないことがわかるということ。

そして、それ以上に「人より得意なこと」がわかること。

 

私は昔から家族という関係が大の苦手なのですが

今回は、家族的過ぎてうざい人たちに囲まれて仕事をしておりまして。

きっと、経験したかった「うざさ」だったのでしょう。

辛さより満足が残ります。

ずっとここにいるのは無理だけど、こういう関わりを経験したかったんだなと

思った次第。

 

どうしてこの職場に来たのかずっと不思議だったのですが

そういうことだったのですね。

得られなかった「うざすぎる親の愛」の偽物バージョンを体験させてもらいました。

過干渉じゃん!!!と何度も思いましたし(笑)

だからあとは飛び出すだけです(爆笑)

不良娘はそうなりますって。

 

そして、うるさい母親や、少し意地悪な姉妹ともうまくやっていける人たちを見て

学ぶことはたくさんありました。

 

いずれ旅立ちはあるわけです。

いつまでも過干渉の親元にいてはいけない。

私はそう思っていますが、ずっとその場にとどまる人もいます。

そういうところも、実際の家族みたいで面白いところ。

 

日本の会社ってつくづく家族の形を模してるというか

男性にとっての第二の家庭の役割を果たしていたというか。

深いですね。

 

職場が家庭であり、素直な子どもとしてすっかり馴染んでしまう人が出世できる形。

仕事ができるかどうかじゃないというのが、何とも・・・です。

進化しないわけですが、居心地は悪くないんでしょう。

 

公務員より会社員のほうがずっと封建的ですわ。

そりゃ自民党勝つわ。

 

昔は企業って進んでるんだろうなとか勝手に想像していましたけど

いやいや、大きな会社であればあるほど、そこにある「昔ながらの」雰囲気は変わらないモノなのかもしれません。

 

起業する人に対しても「新しいな」と思っていたのは今や昔(笑)

だって起業する人自身が新しくないんですから。

育ってきた環境以外の価値観を学ぶことなく、自分の価値観だけでやるわけですから

当たり前ですね。

 

10月というのにまだまだ暑いです。

私はひたすらゆっくりしていますが

皆様もどうか、身体に気を付けてお過ごしくださいね。

 

身体を壊してから休んでも意味ないですよ。

壊す前に休みましょう。

 

では。

 

 

理想が高すぎると言われた女の子の話

来週お休み二日もある~~!!!

 

ちょっと頑張れそうな週末です。

 

さて。

日々ADHD味を出して生きているわけですが

今日はなんと!電車の中にスーツの上着を忘れました(爆

電車の次に乗ったバスの中で気付いた時は_| ̄|○←心の中

 

お客さんのところに行く途中だったので引き返せず

ジャケットなしで堂々と対応し

帰りに駅でゲットしました。

届けてくれた人、ありがとう。

 

まあ、PiTaPaも二度失くしてますし。

 

なんとかなりますって(#^^#)

 

************

 

「理想が高すぎると言われた女の子」の話。

 

どうしても自分に対するダメ出しが止められなかったり

いつまでも自信が持てない人に対して

「自分への理想が高すぎですよ、たいしたことのない自分を認めましょう」とよく

言われますよね。

 

いやいや、そんなこと、できるならとっくにやってますって。

 

と、その女の子は思うのです。

 

ちょうどいま、YouTube羽生結弦選手の演技を見ているのですが

例えば、ピアノでもスケートでもいいけれど、練習してうまくなりたいと思いますよね。

目標は高く持ちませんか?

「わたしなんてこれくらいだから、これでいい」と思ったら

練習するモチベ、下がりませんか?

 

その女の子は、いつも目標を高く掲げることで、自分を保ってきました。

それがなければ、生きていけないぐらいに。

 

なぜなら、周りが女の子にそれを求めてきたからです。

もしかしたら、親も先生もそんなこと求めてなかったというかもしれませんね。

それはそうです。

大人とは、無意識に「いい子」「自分にとって都合のいい子」を求めていて

感受性の鋭い子どもはそれを感じ取ってしまうのです。

 

どれだけ身の程にあっていなくても、「大人が喜ぶならがんばろう」と思うものです。

 

たとえば、「弟や妹に優しくしてね」だとか「クラスの障害を持ってる○○さんをサポートしてね」という言葉かもしれません。

 

親や周りの大人から見て「サポートできる子どもに見えるから頼んだ」という理屈があるのでしょう。けれど、子どもが子どもの世話をできるでしょうか?

 

 

できなくても「できない」とは言えない子どもになるのは明白です。

fって、他の誰にも頼まず、「このわたし」に親や教師が頼んできたのだから。

必死になるしかありませんよね。

本当の理由がなんであれ、そう思ってやるしかないのが、子どもというものです。

 

女の子はだから、「がんばってる」とすら思いませんでした。

サポートできるような自分にならなければ、という気持ちは、いつしか自分を縛る鎖になっていきましたが、それすら気づけませんでした。

 

プライドも理想の高さも、本来の女の子のものではありませんでした。

種がまかれて育っただけでした。

 

けれど、大人になって、そのプライドや理想の高さが邪魔になってきた時

それがまるで、女の子特有の性格であるかのように責められることになっていきます。

 

たくさんのことを我慢して「頑張ってきたコト」のすべてを否定される気持ちになった女の子は、とても傷つきました。

子どもの頃に我慢したことよりも、大人になってから「できなくてもいいのに」「あなたはそんなにいい子じゃないのに」と言われたことに傷つきました。

 

だったらなぜ、自分だけが他人の世話をさせられたのか?

どうしてその役割の辛さをわかちあってくれなかったのか?

今頃になって「できなくていい」とは何だ?

じゃあ、何のために生きてきたのだ?

 

女の子はどんどん辛くなり、生きているのもしんどくなりました。

 

 

さて。

 

女の子はどうやって立ち直ったのでしょうか。

 

それは次回。

 

自分自身を「もっとできるはずだ」と責める人に対して

「できなくても生きていけるよ」なんて言うのは逆効果でしかないです。

 

その点をうまく伝えられるといいけど。

ありの~ままで~♪は、もう古いのか

窓辺にアイビーを飾った。

ご飯を食べている時も、仕事やスマホをしている時も

目にはいる景色がとても良くなった。

自分が望んでいた風景を自分で作れることが喜びである。

 

わたしは、環境を変えることが好きだ。

望まない場所にいると感じたら

そこに留まることや、その環境の中で自分を変えることを良しとしない。

「こんなところにいるわたしではない」というのが

いつものモチベーションである。

 

潜在意識や何かをやってる人が使っている手法に

「自分を疑う」とか「ゴールを定める」というのがある。

私のやってることは、ほぼそれに近いのであろう。

奇跡は起きないが(笑)

たとえば、離婚しようと決意するちょっと前には、いつも「私のいるべき場所はここではないし、結婚している自分が信じられない」という気持ちになっていたし

「子どもと一緒に住んでいるのは落ち着かない」というのも常にあった。

だから、どんなに苦労をしてでも、それは達成することが必須であった。

そうなると、「離婚したいんだけどできない」などということは言ってられない。

いつも「どうすれば離婚できるか」を考えるようになるし、実行するための行動を起こすようになるし、情報にもアクセスしていく。

叶わない理由がなくなるのである。

 

「夢を叶える」とはそういうことだと私は思う。

自分がどうありたいかがわかれば、今いる場所に対する違和感を持つであろうし

そうなれば、どうしたって行動を起こすことになる。

 

しかし、そこに「今いるところで満足しなさい」という人がいる。

そういうアドバイスを受けるたびに、何言ってるんだと思ったし

理解されないことにがっかりして落ち込んだりした。

 

今思うと、それは単にその「今いる場所で満足する」という意味を取り違えていただけだということがわかる。

 

要するに「今いる場所でできることがある」ということであって、決して「その場所でずっと頑張りなさい」ということではないのだ。

「今ある武器で、未来の自分に対してできることは全部やる」・・・これが正解。

 

これまでの私は、天災や子供の事情により、勝手に環境から変化を求められることが多く、(例えば、病気になって考え方が変わった人がいるように)

何かに流されるようにここまできた。

大学を卒業した頃に描いていた未来や、こうすればこうなるだろうという予測がことごとく外れたことで、「私が何かを考えてやることは、無駄なことだ」という強烈な意識が生まれてしまった。

 

それでも、自分の中にある「わたしはこれじゃない感」に突き動かされてきたことはたしかである。

 

「ありのまま」と言う言葉はとても曖昧だ。

他人にそれを使う時には注意が必要だ。

そして、自分に対しても。

 

ここ最近の地震や水害やコロナによって、人生が変えられてしまった人は多いと思う。それを「ありのままに」受け止めることは難しいだろう。

突発的なことによって人生が変えられる経験をすると、神様のような存在を信じないわけにはいかないなあと思うこともあるだろうし、自分の力の虚しさを感じたりすることもあるだろう。

どちらもある。

 

それでも、そこから立ち上がるために、「ありのまま」から始めなければならない。その上で「ありのまま以上」を心に抱いて、理想を描くことができれば、苦労も耐えられるのであるし、苦労を苦労と思わずに乗り越えられるかもしれない。

 

テレビでも書籍でも、ノウハウ本や「すっきりはっきり」が好まれているけれど

人生はすっきりしないものである。

SNSで、まるで絵に描いたような、小説のようなわかりやすい人生を送っているかのように、他人に「見せている」人が多く出現してしまって、混乱している人も多いだろうし、真似しようとしてしんどくなってる人もいるだろう。

 

もっと迷って悩んでいいのではないか。

 

占いでも何でもアドバイスしようとする人は「正しい答え」を出そうとしてしまう。

「ありのまま」とはどういうことかに思いを巡らせないまま、その言葉だけを使えば、相手が納得してくれると思っている。

 

どんなに「すっきり」を求められている「気になった」としても

その人が求めているのは、「すっきりするまで聞いてほしい」のであろうと

私は思う。

 

それはともかく。

 

何かを叶えたければ、それが当たり前と思うまで「叶った状態」を妄想すること。

そして、現実が「何かおかしい」「合わない」と思うことを手始めとして行動していくこと。

それが自分を未来に連れて行く。

これまでの人生を振り返って気づいたことである。

それが正しいかどうかは関係ない。

 

そして、私は今も行動し続けている。

 

この生き方を伝えるためでもあるし、多くの人が「すっきりした回答」から脱して、迷い悩むことを否定しないでくれるといいなあと思いながら。

 

***********

 

それにしても、日々ADHD的な自分を認めざるを得なくなってきている。

同調圧力に従う」人たちと一緒にいることがしんどいのであるが

抗うことなく、風のようにかわしながら、ふらふらとしていようと思う。

 

何かを信じ切った人たちの目は、迷いがなさ過ぎて怖い。

迷ったり揺れたりしながら、最善を尽くしたい。

 

コロナできな臭さが増してきた国だけど

私は国外に出る未来は、今のところ想像できないし

常に人と会い続けながら「できること」を淡々とやっていくだけである。

 

生きよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

「赤毛のアン」とわたし

仕事に復帰した。

復帰する前とでは、見る世界が変わってしまった。

忙しすぎて見失ってしまったものを取り戻した感じだ。

 

それはそうと。

赤毛のアン」である。

 

過去がいつのことなのかまったく覚えていないのだが

少なくとも中学生になる前には「赤毛のアン」を読んでいたと思われる。

そしてシリーズ全て読んだ、はず。

 

村岡花子さんの訳である。

 

赤毛のアン」は、児童書として、他の訳でも出版されている。

思いっきり子供向けに意訳したものから、最近出たものまで。

私は自分が「赤毛のアン」という物語が好きだと思っていたので

きちんと訳された最近の物も読んでみた。

だけど、なぜだかまったく刺さらなかった。

もしかして、読み始めた年齢のせい?と思った。

中学生だったから楽しく読めたのか?とか。

 

しかし、休職中に『アンのゆりかご』を読んでわかった。

 

私が好きだったのは、あの本から伝わる「アンの世界」であった。

村岡花子さんが実際に経験したものが反映されているあの物語。

訳が不完全だろうが、幼い頃から寄宿舎に入って英語を学んだという体験が色濃く反映されたあの物語。

 

あの本から立ち上がってくるのは、まさしくアンの世界であった。

 

私が好きだったのは村岡花子さんの文章だったのだ。

 

私が中学生の時に読んだたくさんの翻訳小説がある。

今じゃ、人気の作家が訳したりもしているが

それで読みやすくなったものもあるけれど

私には、シャーロックホームズやアガサクリスティも

昔の訳のものがいい。

 

それはおそらく、時代というものも関係しているだろうと思う。

同じ時代に近い人が訳せば、その時代の空気も訳される。

どんなに「正しい訳」であろうが、スマホが当たり前の時代に生きている人間が

パソコンもない時代の小説を訳しても伝わらないものがあるのではないか。

 

少女時代に日本にやってきた海外の女性から教育を受けた村岡花子さんが

赤毛のアン」を訳した。

そこに海外の空気が乗らないわけがない。大人になって身に着けた空気ではない。

それを私は感じたのだと思う。

そしてまた、海外に行くことなど夢にも思えない少女たちの心を掴んだのだと私は思う。

 

この発見、実は、仕事を休んでいる間に、わたしは、自分の言葉に対する反応が

歪んでいることに気づいたことが発端であった。

わたしは、自分を守るために、言葉を正しくとらえない時がある。

どうしても心に突き刺さってしまう言葉をシャットアウトするために

ざっくりとしたイメージで文章を捉える癖があるようなのだ。

 

時々「誤解しているんじゃないの」とメールやラインのやり取りで言われることがあって、不思議に思っていたのだが

信頼できる人からの指摘により、ようやく気づいた。

 

自分にとって受け入れられない感情が乗った言葉や文章に対して

私は「言葉を見ずに」反応しているということだ。

その文章のまとまりが発している「雰囲気」「イメージ」をまず受け取ってしまうので

細かい言葉のニュアンスを無視していることがある。

何か私に要求している文章だな、何か私に悟らせようとしているな、私に無理を言ってきているな、と思った瞬間、文字を正しく読まないことになっているようなのだ。

 

思い返せば、私の読書というのは、ざっくりとしたイメージを「読む」ものであり、言葉のひとつひとつを覚えるような読み方はしたことがない。

なので、本をたくさん読んでいる割に、最近よく行われている読書会に参加するのはとても躊躇してしまうのである。

そんな風に読んでないって~ということがわかってしまうから。

 

私は、多くの児童書を読んで、その中にある考え方や主張、伝えたいイメージを取り込んでいった。細かい部分は覚えていなくとも、この作者がどんなことを伝えたがっているか、みたいなことを私は読んでいた。

なので、どんなに流行している本でも、そういう中身のない小説や物語はほんの数ページでやめてしまうし、読めないのである。

 

物語の中にある思想や哲学を読み取ることが、私は大好きだったし、今もそういうお話に出会いたいと思っている。

 

単に面白がらせようとか、エンターテインメントだけを求めたようなお話は、おやつのように読んでは忘れてしまうのみである。

 

わたしはこれまで、多くの人の言葉を誤解して受け取ったかもしれず

それはかなりの損失であったかもしれない。

けれど、なぜだろう、人の書く文章や発言からにじみ出る「何か」を私はどうしても感じずにはいられない。

 

たくさんの経験を経て、ようやく「言葉からの攻撃」を怖がらずに済むようになってきたのは、これからの自分にとってプラスになることだろうし

だからといって過去の自分は、自分をしっかり守ってきたのであり、その感覚を違う意味で研ぎ澄ましていくことが、これからの仕事だと思っている。

 

人は、言語そのものでなく、身体や声色で感情を訴えてくる。

表情や体のしぐさ、文章の中から立ち上がる空気、そういうもので伝わるものも多い。

それをビリビリと感じ取ってしまうのは、あまり嬉しいことではないけれど

それによってできることもあるのではないか。

その可能性に自分のこれからを見たような気がしている。

 

赤毛のアン」は、村岡花子さんのものでなくてはならない。

これまでも、これからも。

いちご水に胸躍らせた少女は、今も私の中にいる。